こんにちは。

サイト紹介・自己紹介ページを開いてくださり

ありがとうございます。

 

ここでは私がこのサイトにかける思い、

そして私自身が歩んできた道筋とメッセージを書いていきます。

 

 

美穂について

 

一般社団法人LDM 協会理事。

人生をデザインする方法の究極形である

ライフ・デザイン・メソッド(R)を、

これまで100名を超えるクライアントにファシリテーションしてきた。

クライアント自身の内なるビジョンを徹底的に引き出し、

心から望む人生デザインと実行、

さらに現業の実際的問題の解決法も同時に引き出してしまう。

これまで携わったクライアントは経営者、起業家、フリーランス、

管理職、サロンマネージャー、講師業、メンタルカウンセラーなど。

一度体験するとリピート希望が続出し、お一人お一人に向き合いきれなくなるため

ファシリテーションのペースを抑えることもしばしば。

多くの人に「自分の人生を生きている」という感動を体験してもらいたくて

Webで「自分美学」を発信していくと決める。

あるクライアントが言ったあだ名——『心の外科医』をひそかに気に入っている。

 

このサイトの方針・メッセージ

はじめまして、美穂です。

 

2020年5月、自分美学研究科をオープンしました。

約2年間で100名以上、99.3%の方に「自分の人生を生きている!」と感動していただき

約8割の方にリピートいただいてきました。

100名以上の方と接する過程で、

私自身が人間的に多くの学び、気づき、成長をさせていただいたとともに、

想像以上に『自分の人生を生きていない』と感じながら生活されている方が多いことに

驚きを隠せなかったことも事実です。

 

しかし、かつては私自身がそうでした

そこで、これまでの知識、経験、成長の過程をWebサイトという形でまとめ、

多くの人に「自分の人生を生きている」という感動を

共有させていただくことにしました。

 

コンセプトは

尽きることのない

人生の意味

磨き続ける

 

『自分美学研究科』では、普通の個人が、

今まで眠っていた人生の意味に気づき、

「あなたらしさ」のすばらしさを日々実感しながら生きるための

考え方・方法・実践例を解説していきます。

 

ここでいう「あなたらしさ」とは、

気持ちや幸福感など精神的なものはもちろんですが、

日々の考え方行動具現化されたものも含みます。

 

そういう意味では単純な

自己啓発、心理学、スピリチュアルなどを解説したサイトではありません。

 

例えば上に出てきた心理学や自己啓発の分野で活躍されている方々ですら、

心の持ち方・捉え方を変えるなどといった精神的な学びだけで完結していません。

実際彼らは「自分らしい生き方」として心理学や自己啓発での発信を選んだうえで、

極めて現実的なものの捉えかた行動(例:ビジネスや人間関係など)をし、

それによって現実的な利益を享受していることに気づきます。

 

もちろんこれは一つの例にすぎませんが、

「あなたらしい」人生が

精神的なもの思考的なもの行動的なもの具体的に表れたもの

という流れの発展的・継続的取り組みであることは誰であろうと変わりません。

 

(自分美学研究科では、上記の流れを、信頼理解実践具現化と呼びます。)

 

自分美学研究科では、

そのデザイン方法と実行方法を、ていねいに纏めていきます。

 

より具体的にお伝えするため、このサイトでは次のような人たちの事例も出てきます。

  • 経営していた美容サロンを閉じるかずっと迷っていたが、閉じることを決意し行動してからというもの、ビジネスアイディアが無限に湧き出し、そのうち1つを実践して、現在は年商が3倍まで向上した話
  • 結婚以来10年間折が合わず、家で口も利かず離婚をずっと考えていたが、夫と本音で向き合えるようになり離婚を回避した話
  • 勉学の方針で対立していた母娘が、娘の方から自発的に勉強し始め、成績が学年の中の下から10番目以内に急上昇した話
  • 経営者である自分から見て情けない限りだった従業員たちから突然のクーデター。仕事も従業員も大切な人生の協力者であることに気づき、誠実に接するになってから、信頼回復がおこりむしろパフォーマンスが向上した話
  • 3年間自己啓発セミナーに通い続けることにいい顔をしなかった夫が、1回のファシリテーションを受けただけで「今日すごくいいね!何を学んできたの?」と笑顔で話しかけてきた話
  • 幼少期からアルコール依存症で暴力をふるう父と、死別前に和解できたことを心から喜んだ話
  • 夫の人生の大決断 —企業勤めをやめ医師になる— を支え成功に導き、自分も数々の幼少期のトラウマを乗り越え幸福感に満ちて生活する話

 

私自身も、実家の両親が機能不全家族であることに始まり、

人生のある局面ではがむしゃらに生き、またある時は希望をもち、

または困難や挫折や絶望を経験した、普通の人間です。

ですが、本気で自分の人生を追求しつづけ、試行錯誤してきた結果、

今や100名以上の方に心から喜んでいただけるような人間になりました。

このサイトではそうした経験から学んだこともお伝えしています。

「自分の人生を生きる」というものに興味があるなら、

何かしら気づきや発見があるのではないでしょうか。

 

自己紹介

初めて訪れる方も多いと思いますので、自己紹介させていただきます。

 

生い立ち

私は和歌山県の有田川郡に生まれました。

物心ついたころには、

父は毎日酒に酔っては、母、私、そして1つ下の弟に暴力をふるっていました。

母は看護師だったので、酒におぼれて働くことのできない父のかわりに働いていました。

また父方の親戚づきあいのなかで嫁の立場で懸命に立ち回っていました。

親戚づきあいと激務が重なったときは、ストレスからやはり子供たちに手を上げました。

 

当時、同居していた曾祖父がかわいがってくれた時間、

紀州犬のテツと遊ぶ時間だけが、

わたしたち姉弟にとって数少ない安らぎの時でした。

でもそれ以外、子供のころの記憶はほとんどありません。

 

小学校に上がるころには、母がいら立つのは

看護師の仕事と親戚対応で心の余裕がないからだと気づくようになりました。

すこしでも母の負担を減らしてあげたいと思いました。

それが母の心の平安、家の平和につながるのなら、そうしたいと思いました。

それ以来、家事全般はすべて私がするようになりました。

同じころ弟がもう1人生まれました。

 

小学生だった私は、

毎日家事に明け暮れました。

毎食の支度も

洗濯も、掃除も

まだ授乳期だった7つ下の弟のお守りも一手に引き受けました。

1つ下の弟はいつも私の後ろをついてきました。

 

夢も、勉強も、友達も、遊びも、すべてが二の次でした。

ただ黙々と家のために、母のわずかな安らぎのために、

弟たちのために、家のことをしました。

父のことは火を噴く置物のように思っていました。人間だとは思っていませんでした。

 

小学校に上がると同時に、

両親の都合で隣町に引っ越しました。

曾祖父ともテツともお別れしました。

 

小学校では転校生ということでいじめを受けました。

来年には1つ下の弟も同じ小学校に入学します。

外から来た子という理由だけでいじめを許すことがあってはならないと思いました。

「私は弟を守らなければならない」

その一心で、自分一人で、やり返して、

それ以後いじめを受けることはなくなりました。

 

私が生まれてきたことの意味なんて考えたことがありませんでした。

人生に喜びがあるという考えすらありませんでした。

夢も希望もありませんでした。

自分の置かれた環境を不条理と思ったこともありませんでした。

あくまでそれが普通でした。

ただひたすら、毎日生きるのに必死でした。

ただひたすら、毎日自分だけを信じて生きていました。

 

自分の存在への疑問

10歳になるころ母方の祖父から

「お母さんがお父さんと結婚したのは、お前がお腹にいたからだよ」

と教えられました。

母のイラつきは、自分のせいなのか。

自分がいたせいで母はこんな目に合わなければならなかったのか。

自分は望まれなかった存在なのか。

自分は母の後悔の象徴なのか。

はじめて、自分という存在に疑問を持った瞬間でした。

 

ちょうどそのころ、初潮を迎えました。

母は「早すぎる。面倒くさい」といいました。

世間では祝われるはずのことなのに、

自分は煙たがられている理由はもはやわかっていました。

母から見て、私は

目的もなく性交渉をもって、望まぬ子どもを授かって

望まぬ生き方をしている自分自身の写し鏡なんだと思いました。

 

このときから、母に対して同情や哀れみの気持ちを抱くのをやめました。

私は潔癖に生きようと決めました。

 

その翌年、

突如下校中に見知らぬ男に体を押さえつけられました。

二次性徴を迎えたての私は格好の餌食でした。

もはや抵抗できませんでした。

私は、大切にしようとしていたものすら

いとも簡単に奪われました。

 

私はもはや、私自身のなにもかもを嫌悪するようになりました。

思春期の初めに、私は人生の意味を見出すことをやめました

私にとって人生とは「無」以外の何物でもありませんでした。

いつ死んでもよいと思うようになりました。

心はもうすでに、死んでいました。

 

生命の灯

——いつ死んでもよい

そう思ってからというもの、頻繁に死というものを身近に感じるようになりました。

 

10歳のころ、通学中に自転車ごと崖の下10mを落下しました。

16歳のころ、通学中に信号無視の軽トラックに突っ込まれ10m近く飛ばされました。

18歳のころ、突如腹膜炎に襲われました。一刻を争う、緊急手術の絶対適応でした。

 

それでも、死にませんでした。

心は死んでいたと思っていたのに、

体は生き続けました。

 

命なんて儚いものだと思っていました。

自分の人生は「無」であり「死」と隣り合わせだと思っていました。

だから死ぬときはあっけなく死ぬものだと思っていました。

でも死にませんでした。

 

ただ、自分の隣に常にいる、死というものを眺めていました。

しかしずっと死ばかりを眺めていると、

むしろ徐々に私という生命の灯(ともしび)が対比され、際立って見えてきました。

最も根源的で、純粋無垢で、まっすぐな意思を持った灯。

その灯は、

私の心が自分自身の人生をどう捉えようと、

私の心が自分の肉体をどう扱おうと、

それとは無関係に、私という生命は常に生きようとしているのが見えました。

 

その灯は虚無で満たされた私の心に光を注ぎました。

私は生命の奥底から届くその光を無視できませんでした。

人生が無なのであれば、ここにいる私はなんなのか。

いつでも死んでよいと思っていたのに、生きようとしている私はなんなのか。

気づくと、私の瞳には涙があふれていました。

 

芽生え始めた「自分美学」

このときから、私は人生に希望を持ち始めました。

 

もし生命の灯がなお生きつづけているなら、

たとえ心が、いくら死んだつもりになっていても、

自分という存在を、いきなり認めることはできなくても

嫌いだった自分を、いきなり好きになれなくても

自分で自分の人生を、いまから描き出すことはできるのではないか。

 

私はこの生活を抜け出したいと思いました。

生命の灯に魅せられた私は、大学に進学し

生物学の研究をしたいと思うようになりました。

そしてその分野で大きな成果を上げて、お金をしっかり稼いで、

いつも家の経済状況を子供の前で嘆いている母を養ってあげようと思いました。

 

そうやって

輝いている自分像を思い描くだけで、

そこに向かって日々努力しているだけで、

すでに今が輝いている気がしました

それにふさわしい自分になろうと思いました。

私にとって最初の「自分美学」が輝いた瞬間です。

 

このころ、5時に起きて24時に寝る生活でした。

しかし、幸い大学の選択肢に困らない程度の成績がありました。

心から進みたいと思える研究室も見つかり、そこに所属するために進学先を選びました。

私は実家を離れ、希望する大学・学科・研究室に進みました。

これまでの人生では考えられないような生活を楽しみ、友達ができました。

自由で、楽しくて、希望に満ちていて、何より幸せでした。

 

もろくも崩れ去った美学

大学2年生のとき、恋人ができました。

私という存在を心から受け入れてくれる人に、初めて出会えたと思いました。

彼と一緒なら、安心して私のまま、幸せに暮らしていける。

そう思うと心から安堵することができました。

 

しかしその安らかな時もつかの間でした。

大学4年のころ、私も彼も大学院に進学することにしました。

ちょうどそのころ、私が所属していた研究室が別の大学に移ることになりました。

彼は一緒に来てくれると言ってくれました。

でも、彼はその大学の大学院入試には合格しませんでした。

私たち二人は遠距離恋愛になりました。

その後しばらくして、別れました。

 

私は心の底では、まだ私自身が嫌いなままでした。

これまで私は自分を否定し、

今までの自分とは違った、「輝く未来」を描くことでしか努力できませんでした。

 

高校の時、唯一、自分の美学を支えていたのは、

輝いている自分像を思い描き、

そこに向かって日々努力している自分を好きだったことでした

そんな自分を大切しようと思っていました。

でも、そんな自分をいつしか忘れていました。

 

自分の心を埋めてくれる存在として、

いつのまにか、私の心が彼に依存していました。

私は自分の「美学」を、自分で支えられなくなっていました。

 

自分で自分の美学を殺す

——自分以外になろうとすると、

かならず自分の内側を埋め合わせる存在が必要となる。

この別れの段階で、本来私はこのことを学ばねばなりませんでした。

しかし当時の私はそのことに気づかず、

ひたすら幸せの源を、外側に求めていました。

 

あくまで外側から自らの埋め合わせを「獲得」することにこだわり続けた私は、

高校生の時に描いた「輝いている自分像」を、

いつしかそれ自体を目的とするのではなく、

空虚な自分を埋め合わせる道具に成り下がらせていました。

——わたしは欲しいものを手に入れ、勝利し、初めて幸せになれる。

私がかつて抱いていた自己像=美学にかわって、それが信念として定着していきました。

 

私はかつて描いた未来像にただ固執しました。

生物学の研究で結果を上げ、お金を稼ぐことで、

自分の内側を埋め合わせようとしました。

彼との別れのあと研究に没頭しました。

のちに国際的に有力な学術誌に掲載されました。

卒業後就職した企業では、担当となった血糖センサーの開発において

いつしか事業所全体(技術、製造、法務、営業)の台風の目となり

年間3億枚を売り上げるメガヒット商品に育て上げました。

 

それでも、心は空っぽでした。

 

「わたしは欲しいものを手に入れ、勝利し、初めて幸せになれる」という信念をもつにつれ

それを失ったときの喪失感 ——喜びや満足感を失ったり、生存が脅かされたりすること

に対して、防衛的に反応するようになりました。

その最大の手段は「自信」でした。

「私は自分に自信がない」という思いが根底にくすぶっているときは、

そういった喪失感への防衛手段を持たない、「弱い」自分を憐れんでいるときでした。

 

私はまさにそうした理由から「自信」をつけようと躍起になりました。

たくさんのスキルを苦労しながら身に着けていくのが価値ある人生だと思っていました。

いつしか、それに投資した多くの時間と労力を、自分という存在と同一視しました。

それをしない人間を、無能と決めつけていました。

逆に疲れて体が動かないとき、そんな自分を嫌悪しました。

 

私はすっかり、人間不信に陥っていました。

その根っこには、自分に対する不信がありました。

つまり美学の不在でした。

他人のあらを探し、「この人と自分は違う」というひそかな軽蔑心をもって、

人から自分を遠ざけることが、唯一アイデンティティを保つ方法でした。

 

自分を埋めるために他者に過剰に期待し、

失望することを恐れて自信をつけようと躍起になり、

つかのまの自信を保持するために他者を見下し、

結果、他者が離れる。

そのような負の循環を経験していました。

 

偶然の転機

このころ、

いつ死んでもいいと、以前より強く思うようになりました。

そしてふたたび頻繁に死というものを身近に感じるようになりました。

25歳のとき、猛毒が含まれていると知らされずに先輩の指示で実験し、めまいで倒れました。

26歳のとき、運転中に突然、居眠り運転の車が中央分離帯を越えてきて、正面衝突されました。

27歳のとき、仕事中何も考えず気づいたら屋上にいました。ふと我に返りました。

 

でも、体は変わらず生き続けました

なのに、もう、自分を受け入れてくれる人などいない とあきらめていました。

どのように生きたらよいのか、もはや私にはわかりませんでした。

せめて自分一人の力で頑張って生き続けて、

力尽きたときにそのまま命を落とすのだと思っていました。

 

そう腹の底から思った時、

ふとしたきっかけで一人の男性に出会いました。

まったく顔見知りでない、本当に偶然の出会いでした。

 

ひょんなことから、彼とデートすることになりました。

私と彼との付き合いは、デート終わり間際の驚きの告白に始まりました。

結婚を前提にお付き合いさせてください

 

最初聞いたときはさすがに戸惑いました。

彼の第一印象は「大学時代の友達にそっくり」でした。

正直なところ、今までの、私の好きなタイプとは見た目も性格も正反対でした。

しかし、私自身も何か「気になる」ところがあり

結局私たちは付き合うことになりました。

 

150度ちがう二人

彼と私とは全く違う考えをもっていました。

 

私は、ここまで書いてきたように

「欲しいものを手に入れ、勝利し、初めて幸せになれる」

「そのために時間と労力を惜しまず、結果をストイックに追い求める」

「そうでない人は、向上心のない人、誠実さがない人」

という信念を形成してきました。

 

一方彼はというと、

「自分のやりたいことを自由に取り組んで、それが結実するまでの過程幸せ

「そのために時間と労力を惜しまず、過程を楽しむ

「自分に正直であることなしに発揮される向上心誠実さは、偽りである」

という信念でした。

 

私たちは、

幸せ、時間と労力、向上心、誠実さを大切にするという点で価値観は一致しているのに

アプローチが全く違うのと、何より良し悪しの「評価基準」が違いました。

真逆(180度違う)ならぬ、150度違うカップルということで、かえって困難を生みました。

たとえば、相手が心から「誠実な気持ち」にもとづいて、良かれと思って行ったことでも、

受けた自分にとって不愉快なことであれば「誠実さに欠ける」ことと捉えました。

そしてそれをつい指摘してしまうと、逆に相手は「誠実さをあだで返された」と思いました。

このような応酬をお互いに繰り返していました。

 

普段の会話はそれなりに仲良くやっているのに、

衝突のさいは「私たち本当にカップルなのか?」と

自分たちで疑ってしまうほど激しくぶつかり合いました。

私自身、幼少期から多くの不条理を経験してきたことと、

以前の恋人と別れた後の一連のトラウマや葛藤を引きずっていたこともあり、

まるで彼を試すかのように、激しく責めたことがありました。

彼は最初は我慢するのですが、人に叱責されることに慣れておらず自尊心が高かったこと、

私の人生に対する理解不足があったこと、そのため受容のキャパシティが小さかったことから、

結局はいつも反発しました。

ひどいときは、その自尊心が耐えられず、手を上げたこともありました。

それを受けて私は幼少期に両親から受けた仕打ちを思い出し、

「それ見たことか」「お前も私の両親と同類だ」とさらに激昂することもありました。

——信頼できると思っていたのに、受け入れてくれると思っていたのに、結局信じられない。

結局彼は私を騙し、裏切ったと映りました。

そう思うと悲しくなりました。

 

別れようと思ったことはたくさんありました。

しかし、彼はなかなか別れようとはしませんでした(※)

とはいえ、私は私で、何か心の奥底でお互い引っかかるものもありました。

それが何なのか、突き止めもせず、消化することもなく、

ただ「悪いのは自分ではなく相手だ」という理由で別れるのは気持ち悪いと感じていました。

※当時私はこのことを大変鬱陶しく思っていました。しかし、後にわかることですが、彼は私がこの時点で「自分の美学」に生きていないことを見抜いていたようでした。一時的に抱いた矮小化された「目標」「財産」に固執する姿は、本来の私ではない。本来の私の姿を見るまでは別れられないと思っていた、と語っています。

 

少なくとも二人が互いに手を取り合って生きていくには、

単に互いを「理解する」だけでは足りず、

相手から学びとる」「自分にも取り入れて実践する」というレベルが求められました。

しかしお互いそこまで実践できるようになるのはまだまだ先のことでした(※)

※衝突を繰り返すたび、お互いの主張や意図を理解しきるまで話し合い、納得するところまで毎回持っていきました。これによって、1歩1歩、お互いにじっくりと前に進んではいました。

 

 

さらなる転機

ある日の夜、彼と会ったとき、

突然切り出された一言に、私は再び戸惑いました

僕は医者になる。

少し人生遠回りになるけれど、絶対後悔させない。

そのあいだ、美穂さんに支えてもらえないか?

 

彼と付き合いを続けるべきか、結婚してよいものか、という葛藤がそもそもありましたが、

しかしそれ以上に、もし彼の望みをかなえることになるとすると、

「欲しいものを手に入れ、勝利し、初めて幸せになれる」

という私の当時の信念にもとづいた、人生計画が決定的に揺るぎかねませんでした。

「自分の勝手だけ言って、私の願いは無視するの?」と当初は思いました。

 

——ここで不思議なことが起こりました。

ふと、どの大学の医学部を受けるか気になった私は、

なにげなく頭に浮かんだ大学名をつぶやいてみました。

そうすると彼は狐につままれたような顔をしていました。

「…どうしてわかったの?」と彼は聞き返しました。

 

この何気ないやりとりのなかで、私ははっとしました。

——もしかして、私は他人が純粋に望むことが肌でわかるのか?

——そうだとすると、(私が抱いている「自分勝手な生き方をしている」という思い込みとは裏腹に) いま目の前にいる彼は、純粋な自分から湧き出る希望に素直に生きようとしている人間なのではないか?

——それは、私が高校時代に生命の灯に魅了され、自分を信じるときの輝きと同じなのではないか?

 

このときから、

ほんの少し、彼に対する見方が変わりました。

少しだけ、彼の可能性を見てみようと思いました。

少しだけ、彼を期待してみようと思いました。

少しだけ、私も彼から学ぶこともあるのかもしれないと思いました。

そして、もしかすると、私が彼の支えとなることで、

私の人生に新たな意味がもたらされるかもしれないと思いました。

彼自身もまた、その影響を受けて大きく変貌・成長するかもしれないと思いました。

 

そんな期待に、私はかけてみようと思うようになりました。

彼に。

そして彼を信じる私自身に。

 

その翌年、私たちは結婚しました。

その冬、私は9年間務めた会社を辞め、彼の実家に住まわせてもらいました。

彼は医学部受験の勉強に専念し、私はそれを支えることになりました。

 

献身、和解、発展的回帰

人の望みや、叶えるためのポイントが見える

夫は受験勉強のために最適な環境を手に入れたと言ってよい状況でした。

しかし、夫は絶対合格しなければならない、もう後がないという焦りに駆られていました。

当時、夫の一日の勉強時間は12時間でした。

それだけ勉強していたにもかかわらず、入試問題の模擬試験の成績が思うように伸びず、

イライラしているのが目に見えてわかりました。

 

当時夫は、自分一人だけで頑張っている気になってしまっていて、

応援してくれているご両親への感謝も忘れていました。

いま集中できているのはご両親のおかげなのに、

そもそも夫という人が存在しているのはご両親のおかげなのに、

本(もと)を忘れてしまっている

そのようなことで、結果が出るはずがないと思いました。

——不思議と、私の心の中にそんな考えが浮かんできました。

 

私はよく夫を気分転換と称して、家の外に連れていってあげました。

単に出かけるだけでなく、勉強しやすい場所や図書館なども調べて、

一緒に行ったりもしていました。

夫は感謝してくれました。

あるとき、出かけたタイミングで私は夫に切り出しました。

「このままじゃ、落ちるよ」

 

この一言が夫には刺さったようでした。

夫はご両親に感謝するようになり、心が穏やかとなり、

勉強の効率が上がり、ついには合格通知を4つの大学から勝ち取ることができました。

 

献身から気づいた、私らしい生き方

夫にとっていま最も必要であることを、

どうやら当の夫自身は自覚していないようでした。

しかし、私にはわかりました。

夫が医師になりたいと打ち明けた時もそうでしたが、

どうやら私には「他者の望み」をかなえるために、

現在本人が最も必要としていることが肌感覚でわかるようでした。

 

——もしかすると、

人の望みをかなえてあげること

そのために今一番必要なことに背中を押してあげることが

私らしい生き方なんじゃないか。

 

ふとしたきっかけで、そのように思うようになりました。

そのような対象がいることが幸せの条件ではなく、

まして何かを獲得するでもなく、何かに勝利するでもなく、

ただ、そのような存在になるそのような生き方をすることこそが

幸せの道なのではないかと直感しました。

そうなれたらどんなに素晴らしいことかと思いました。

まさに私の人生に新しいステージと意味がもたらされそうな予感でした。

 

そして父と。

ところで、

——本(もと)を忘れたままでいて、よい結果が出るはずがない

自分から発したこの言葉が、

実のところもっとも突き刺さったのは他の誰でもない私自身でした。

 

それは父のことでした。

 

このときすでに父は癌を3つ抱えていました。

ありていに言うと死期が近づいていました。

ちょうど夫の受験も合格通知が1つ2つともらえて余裕が出てきた頃だったため、

私は実家のある和歌山に父の看病に赴くことになりました。

 

父は、こんにちに至るまで「許せない」存在でした。

ある意味、父を許せなかったことと、私が私自身を好きでいられなかったことは

密接に関連していました。

父を許せないというのは、私自身が抱える根源的な自己矛盾でした。

 

父をこの手で看病する日がくることは、正直想像もつきませんでしたが、

私はこの自己矛盾を、どこかで解決したいと願っていたのかもしれません。

(実際、次なるステージ ——人の望みをかなえる・背中を押す といった生き方をするには必要でした)

実際に看病し会話を交わすにつれ、私がこれまで知らなかった父の様々な面が見えてきました。

それとともにかつての「許せない」という気持ちから、

急速に印象が日々変化していくのを感じました。

 

地元の有力企業で「本家の長男=跡継ぎ」となることを背負わされながら生きてきたこと、

自分の人生を切り開いたり経営者の手腕をつける前に、会社の事業を1つつぶしてしまったこと、

昔からの従業員や友達からは「心優しい人」として慕われていたこと、

一方その繊細な心は、罪悪感・恥の意識に向き合えず、酒に逃げ家族にあたってしまったこと、

しかし技師としては相当優秀であったことをひそかに誇りに思っていたこと、

そして何より、やはり父として娘である私の身を、案じていたこと。

 

父が幼少期に、私たち家族にしてきたことが消えるわけではありませんが、

さいごに父と交わした、日々の会話が

私という存在を、初めて誰の助けもなく自分で受け入れられる土台になったことは

今から思い返しても間違いなかったことのように思います。

 

父は数十年間の不摂生な生活で体がボロボロでした。

なのに死を迎えるその直前まで、心臓は鼓動し続け、脳は波うち、肺は呼吸しつづきました。

いくら父の心が、罪悪感をもとうが

いくら父の心が、それゆえ自らの体を痛めつけようが

父の生命は、あくまで「生きる」ことそれ自体のためだけに、最後まで必死に動き続きました。

父と私を隔てる本質的な違いは、もはや何もありませんでした

 

2018年1月4日、父は生命の灯を燃やし尽くして、しずかに息を引き取りました。

 

尽きることのない人生の意味を磨き続ける

いまの私は、夫を支えたこと、父と死別直前に分かり合えたこと、

なによりそこから私自身の生き方をつかんでいました。

——人の望みをかなえてあげたい

今一番必要なことに背中を押してあげたい

そのための、適切な道具を習得したかったのです。

 

私は人生をデザインし実行する方法、

ライフ・デザイン・メソッド(R) (以下LDM)を真剣に学ぶようになりました(※)

そのさい、ファシリテーター(講師)からLDMを受けて自分の人生をデザインするだけでなく、

私自身が人にファシリテーションするクラスに通いました。

※ 実はもともと北海道に移り住む前から、夫と一緒に受講していました。
夫はLDMをとおして、医師になりたい、とはっきり認識し、実行できたと言っています。

 

私は多くの人にファシリテーションするようになりました。

先日、数えたら100名を超えていました。

LDMは「じぶんが今心から望むもの」を曇りなく見つめやすい状態に導く

という意味ではとても有用なツールです。

しかし、それをはっきりとした言葉やイメージにできるかどうかは、

ファシリテーターの腕にかかっていました。

 

そういう意味で、私はお相手の心の内側に潜む声を、言葉で表すことができました。

私の、これまで生きてきた様々な経験と、お相手の内面がつながり、

適切な言葉が紡ぎだされていきました。

これが呼び水となって、

お相手の中でイメージや言葉として、はっきりと自分らしい人生がデザインされていきました。

そして、日に日に人が変わっていきました。

 

私のファシリテーションの「おかげ」で、人が変わった

などと言うつもりはありません。

私という人間が、あらゆる人の喜び、苦しみ、不条理を網羅的に理解できる

などと言うつもりはありません。

私の経験が、あなたと被っているから、私はあなたの気持ちがわかる

などと言うつもりもありません。

 

でも、

自分の人生の意味に取り組み続け、

生命の灯を信じてあきらめず、

「自分らしく」生きようと願う人が、何を感じて、どのように葛藤し、何に希望を抱くかは

手に取るようにわかります

そして、私たちは、だれもが、

本当はそのように生きたいのだということを知っています。

 

人の望みは、ある意味で驚くほど個人差がありません。

「自分らしく生きて、後悔なく死ぬ」

これ以外に何があるというのでしょうか。

 

もし誰もが本当はそのように生きたいのだとすれば、

私が今までお相手にしてきたことは、何ら特別なことはありません。

 

ただ、私が

尽きることのない

人生の意味

磨き続ける

 

ことによって、お相手の人生をデザインすることを、手助けできたのだとすれば、

まさに、

あなたも例外なく、そのように生きることで、

あなたらしい人生をご自身の手でデザインし実行できる

ということです。

 

自分だけでなく他人にも

自分の人生の意味に取り組み続けると、自分で自分をインスパイアできるようになります。

そして、自分をインスパイアできるようになると、

今度は他人をインスパイアできるようになります。

 

私自身、今まさにそうなっていることを実感していますし、

身の回りにもそのような人が増えて、

その輪が徐々に広がっていくのを感じます。

 

夫は大阪大学の医学部に合格した後、

その経験をブログ>>にまとめました。

その内容に引き付けられたファンは多く、

実際何人かが夫のもとで教えてほしいと願うようになり、

そのうちの半数以上を現在までに合格させています。

(※試験の倍率は20倍程度)

 

他に私のファシリテーションのお相手となった方も、

  • 経営していた美容サロンを閉じるかずっと迷っていたが、閉じることを決意し行動してからというもの、ビジネスアイディアが無限に湧き出し、そのうち1つを実践して、現在は年商が3倍まで向上した
  • 結婚以来10年間折が合わず、家で口も利かず離婚をずっと考えていたが、夫と本音で向き合えるようになり離婚を回避した
  • 勉学の方針で対立していた母娘が、娘の方から自発的に勉強し始め、成績が学年の中の下から10番目以内に急上昇した
  • 経営者である自分から見て情けない限りだった従業員たちから突然のクーデター。仕事も従業員も大切な人生の協力者であることに気づき、誠実に接するになってから、信頼回復がおこりむしろパフォーマンスが向上した
  • 3年間自己啓発セミナーに通い続けることにいい顔をしなかった夫が、1回のファシリテーションを受けただけで「今日すごくいいね!何を学んできたの?」と笑顔で話しかけてきた

など、枚挙にいとまがありません。

 

人生を「あなたにとっての」成功に導くのは、

バイタリティでも、モチベーションでも、ハードワークでも、

知性でも、スキルでも、

まして勝利でも獲得でもなく、

自分で自分をインスパイアできる能力です。

 

私があなたにシェアできるのは、

まさしくそのような生き方です。

 

あなたにお伝えしたいこと

  • 奥底に潜む「生きたい!」という気持ちを無視しないで 自分の死というものを身近に感じ、逆に生命の灯というものを実感して感動した経験から。それを信じるからこそ、人はあきらめずに生きていくことができる。経験1 経験2
  • 自分で自分の美学を殺さないで どんなに絶望しても、どんなに皮相的に自分の人生を悲観しても、事態は好転しない。誰も幸せにならない。あなたの人生には、まだ誰も(そしてあなた自身も)照らし出せていない、意味が眠っている。 経験3
  • 献身的であきらめない自分のことを、誰より自分がよく見ている。 あなたがあきらめない姿を、あなたの人生は裏切りません。そこで積みあがった経験、視点は、かならずあなたの人生に報いてくれます。
  • わたしたちは原石。磨くことで輝きを増してくる あなたの尽きることのない人生の意味は、あなた自身が磨きだすことで、初めて自分にも人にも見えるようになる。インスピレーションが湧いて、理解し、実行するまでは、あなた自身すらあなたの隠れた意味を理解しえない。
  • 自分をインスパイアすると、だんだん他人もインスパイアできるようになる 人生をあなたにとっての成功に導くのは、バイタリティーでも、モチベーションでも、ハードワークでも、知性でも、スキルでも、まして勝利でも獲得でもなく、自分で自分をインスパイアできる能力です。いちどその感覚をつかんだ生き方を実践すると、徐々にその輪が広がっていきます。 経験4

 

経歴

  • 和歌山県立耐久高校卒業
    その高校名に恥じない、高野山から麓の町まで下山するロングハイキングがありました・・
  • 静岡大学理学部化学科卒業(学士(理学))
    人生の夏休みでした
  • 広島大学大学院先端物質科学研究科博士課程前期修了(修士(理学))
    当時は早く「お金を稼ぎたい」と思っていました
  • パナソニックヘルスケア株式会社(現:PHC株式会社)にて家庭用血糖センサー事業の立ち上げと上市に従事。製造、技術開発、国際規格への適合、法規、営業、品質管理全てに関与し、血を吐く思いで年間3億枚商品に育て上げたことは、今となっては良い思い出です。
    ここまで、ガチガチの理系人生でした
  • 文部科学省後援こころ検定1級 = メンタルケア心理専門士
  • 一般社団法人LDM協会理事

 

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