こんにちは、
美穂です。
今日も一緒に
自分美学を磨く旅に出かけましょう^^
今回は
硬直したセルフイメージから私たち自身を解き放つ
—私たちが一生かけて守り抜くほどの価値がある、絶対的な人生観など存在しない
についてお話しします。
自分美学を磨いていくうえで最も土台となる取組は、
硬直したセルフイメージから私たち自身を解き放つことです。
そのためには固定観念から脱却する術を身につけなければなりません。
そこで、
今回は固定観念から脱却する術についてお話しし、
それを「自分美学」にどう生かすか、述べていくことにしましょう。
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固定観念について
固定観念の意味と私たちのイメージ
私たちが「固定観念」という言葉に対して抱いているイメージは何でしょうか。
関連する言葉としてよく出てくるのは、
「ステレオタイプ」とか、「既成概念」とか、「先入観」「思い込み」などですよね。
ここで「固定観念」の本来の意味について見てみると、
Wikipediaの該当ページには
「他者の意見や状況変化に応じず、ぞれが行動にまで影響している観念
(見え方・捉え方)のこと」(一部わかりやすい表現に改変)
とあります。
心理学用語ですね。
つまり「ステレオタイプ」「既成概念」「先入観」「思い込み」などの言葉は、いずれも、
固定化された見方とか、状況変化に出来ていない古い概念という意味合いを持つので
「固定観念」の一種ということになります。
いずれにせよ、これらの言葉から得られるイメージは、
全般的になんとなくネガティブなものだといえます。
固定観念の後に続くよく聞かれる言葉は、
「覆す」「崩す」「壊す」「手放す」「なくす」「捨てる」「脱却する」「打破する」「払拭する」
など否定形の言葉ばかりが並ぶことことからも、明らかでしょう。
きっと、
- 考えが凝り固まっている
- 人のアドバイスに耳を傾けない
- (ゆえに)発展性がない
- (ゆえに)成長しない
- (ゆえに)話はおもしろくないし発想も乏しく、アイディアも出てこない
ような人と交わすコミュニケーションにあまり楽しい思い出がないし、
私たちを成長させてくれるような発展性もないし、
それゆえあまり時間を共にしたいとは思わないし、
何より自分はそうはなりたくないと思っている、
ということなのだと思います。
固定観念のメリット —適切な局面を選んで使うのが大切
とはいっても、固定観念じたいに、
もしくは「考え方・見方・捉え方を固定化する」ことじたいに、
一方的に悪のイメージを植え付けるのはあまり得策ではありません。
というのも、普段の私たちは、
ある程度の「固定化された見方・捉え方」があるからこそ、
身の回りの出来事を理解し、対処できているからです。
たとえば私たちは
- スーパーでの会計は、値札に書いてある値段に1.08~1.1倍かけられた値になることを知っています
- 公道を出歩く際は、赤信号で止まり、青信号で進み、進む際は周囲を注意深く見渡すべきだと知っています
- 事業を営む人であれば、売り上げ向上のアプローチを、新規来店者数・客単価・リピート率の3つの視点で整理すべきことを知っています
このように、社会のルールや事業構造を理解したり、計算で整理できる物事を理解する場合は、
ある程度の「固定化された見方・捉え方」を身に着ける必要があるのです。
これをフレームワーク(思考の枠組み)と名付けましょう。
実際、私たちの頭脳は
「固定化されたものの見方・捉え方」=フレームワークを形成しやすいように出来ています。
失敗を二度としないように、または成功を再現するように(←失敗を恐れるがゆえに)、
世の中の法則性を見出し、学習し、そのように行動するのです。
これは私たち人類のここ百数十年を除いて、基本的に「失敗」が致命傷に結びついたからでした。
辺縁系から導かれる恐れの感情によって、偏桃体の強化学習回路が駆動される仕組みが、
比較的原始的な脊椎動物のレベルで保存されています。
私たちは、生物が38億年の歴史を通して獲得してきた機能をうまく生かして、
現に社会的・知的活動を営んでいるといえます。
固定観念やフレームワークが「悪」だと一方的に決めつけると、
常識もルールも先人の知恵もすべて無視して、
なんでも自分の思い付きの通り言動することになります。
このような生き方をすることが、果たしてわたしたち個人、
または社会にとって望ましい姿であるかは、よく考える必要があります。
また、私たち自身の「潜在的可能性」をひたすら信じて、
何か情熱的な生き方に人生の全てをささげる、といった場合も
ある意味固定観念に縛られていると言えなくもないわけですが、
基本的にポジティブな力を発揮しています。
これも「固定観念のメリット」と位置付けてよいと思います。
いずれにしても、「固定観念」も
適切な局面で使うことでポジティブな作用がもたらされるわけですから、
その限りにおいて人生の有用なツール程度に活用しうることは
念頭に置いておくと良いでしょう。
固定観念のデメリット
ここで重要なのは、固定観念が状況によってメリットにもなるし、
デメリットにもなると言うことを知ることです。
「考え方・見方・捉え方を固定する」のも程度問題である、ともいえるでしょう。
メリットは先ほどから述べてきたとおりですね。
ではデメリットは何でしょうか?
これも、冒頭で「私たちの多くが固定観念にネガティブな印象を抱いている」
と述べたことにヒントがあります。
そこで述べたことを逆説的に言い直すと、固定観念のデメリットが浮き彫りになります。
- 考えを変えるべき時に、変えられない
- 人のアドバイスを聞くべき時に、に耳を傾けない
- (ゆえに)発展すべき時に、発展できない
- (ゆえに)成長すべき時に、成長できない
- (ゆえに)アイディアを出すべき時に、アイディアが出てこない
つまり、固定観念のデメリットは
自らの考え方・捉え方・見方が「変わるべき時」に、
何らかの理由で「変えられない」ことに起因して、
発展・成長の機会を見過ごしたり、知的突破力・創造力が生まれない
という点に集約されます。
また固定観念が行き過ぎると、
知的突破力・想像力が阻害されるため、その代償行為としての
排除・排斥行為、ひいては(物理的・心理的)暴力行為に結びつく弊害すらあります。
「固定観念」を解きほぐすべきなのはどんな時か?
上で述べた問題点を回避するために、
最も重要な論点は
「変わるべき時・他者のアドバイスを聞くべき時はいつか?」
「そのとき、固定観念を解き放つには、どのような方法があるのか?」
の2点です。
まずは1つ目の いつか? を考えてみましょう。
これを考えるヒントは、さきほどの「メリット」に隠されていそうです。
それ以外の局面ではデメリットになりそうだ、と考えることができるからです。
先ほど述べた、考え・見方・捉え方を固定化することによってメリットが得られる局面は、
「ルール」「計算によって答えが出る問題」を理解するときでした。
ここで試しに、
「ルール」「計算によって答えが出る問題」を理解するとき以外で、
フレームワークを導入してみましょう。
たとえばこんな時です:
- ここ数十年来、母の日にプレゼントにはカーネーションが買われるのが慣例となってきたいる。だから今後も花を売るうえではカーネーションだけを最重要品目として据えるべきだ
- 私の娘は2歳のとき、箸が持てず、食事中も落ち着かず走り回っていた。だから娘は落ち着かない性格であり、7歳になった今も子供用チェアにおとなしく座らせて食べ方のイロハを教え込んでいる
- 社内のAさんはかつて私が提案した事業計画に反対した。だから事業メンバーからAさんを排除すべきである
- 150年前の合衆国最高裁判決では女性に参政権も社会的地位も、男性と同様に認められるはずがない(認めるにはまだ早い・成熟していない・男性に守られるべき)という判決が出た。だから現代も法律で女性に男性と同等の社会権・職業の自由が与えられるべきではない(50年前までの実話)
- 200年前の南アフリカでは黒人が白人の支配に反抗した。だから黒人は恐るべき蛮族であり社会的人権を与えるにふさわしくない(30年前までの実話)
あれれ、途端に変なことになりましたね。
「ルール」「計算によって答えが出る問題」を理解するだけだったら
フレームワークはとても強力に作用していたのに、
それ以外の状況では、全く役に立たないどころか、
むしろ私たちに害すら及ぼすように見えます。
(ゆがんだフレームワークが行き過ぎた排除・暴力に至ったとき、それを差別や偏見と呼ぶこともあります)
(人間が排除・排斥・暴力に至るとき、その人は極めて貧相で画一的な「固定観念」の奴隷状態なのです)
以上は非常にトンチンカンな話に見えて、
地球上のどかで実際に起こっている風景だったりもします。
これ例からもわかるように、
基本的にフレームワークは
『「ルール」「計算によって答えが出る問題」を理解する』
のような静的・安定的・一義的な対象やシステムに限って適用するか、
または時間変化する対象であっても
『その瞬間の特徴を捉える(他人に対する評価・印象も含む)』
場合のみに限定的に適用できるだけであって、
それ以外の局面では
使うべきではない、または使い続けるべきではないと言えます。
もっとわかりやすくいえば、
個人(生き方、性格、価値観、得手不得手、人生の意味)
社会の変遷・時代の流れ(価値観、課題、トレンド)
のように、数学的な・一義的な解が出ないものを理解したり、対処しようとする時にこそ、
見方・捉え方・考え方を極めて多面的かつ流動的にする必要があると言うことです。
常に新しい・ちがった光の当て方ができないかを念頭におくべき、ともいえるでしょう。
個人・社会についての話題がのぼっているさいに
「〇〇って、結局~~ということだろう」
という捉え方を無意識的にしているときは、
——そう、本当に無意識のうちに—— 固定観念に縛られているし、
そういうタイミングこそ、固定観念が解きほぐされるべきといえます。
ゆえに、そのようなドグマに私たちの心を陥らせないためにも、
私たちは自身の心・考え方・捉え方を、常に自己点検しておく必要があります。
ではどうすればいいか?を考える
それでは2つ目の着眼点
「そのとき、固定観念を解き放つには、どのような方法があるのか?」
について考えていきます。
多くの実務上の問題解決と同様に、
ここでも 問題の原因と構造を知ってその正体に迫り、
そのうえで方策を考えます。
今回に関しては
- 「固定観念とはどのようにして形成されるのか?」(原因)
- 「そもそも固執するに値する、絶対的な見方・世界観・コタエは存在するのか?」(構造)
- 「ではどのように物事を捉えることで、固定観念への執着を阻止できるか?」(解決)
とそれぞれ命題を設定し、
1つずつ見ていくことにしましょう。
【原因】固定観念が形成する要因と過程
肉体的な要因
先ほど述べたように、私たちの頭脳は
「固定化されたものの見方・捉え方」=フレームワークを形成しやすいように出来ています。
失敗を二度としないように、または成功を再現するように(←失敗を恐れるがゆえに)、
世の中の法則性を見出し、学習し、そのように行動するのです。
社会的な過程① —学校教育は「所与のシステム」上での生存方法を学ぶ場
私たちの肉体(ハードウェア)がそのような性質をもつうえに、
さらに追い打ちをかけるのが社会システムです。
たとえば学校教育では、読み書き、算術を教え、
さらに自然科学の法則や社会システムの理解や、歴史の捉え方を学びます。
一見賢くなるためのシステムですが、
それは既存のシステムを所与のものとして受け入れ
そのなかで適切に動く方法を学ぶだけです。
常識、先人の知恵、ルールを知ったうえで行動すること自体は重要です。
しかし、本来そのような教育は、
いちど「既存のシステムを所与とする」前提から距離をおき(これぞ固定観念を脱却するという作業です)
自分の頭で考えること(物事を多様性の光にあてて考えること)と
セットで行われるべきです。
そうでないと教育は「所与のシステム」内で働く「歯車の量産装置」でしかなくなります。
教育システムが量産装置である限り、
教わる側は「同化」「適応」「受容」の強要を(たとえ直接指示されないにしても)経験します。
また「所与のシステム」として植え付けられる対象は、教科だけでなく「社会性」にも至ります。
たとえば、空気を読むとか、思いやりとか、よく理解していない知識については口をつぐむとか
間違えたり失敗すると恥ずかしいとか、男らしさとか女らしさとか、
年上だから年下の面倒を見るのは当然だとか、村八分を避けるためにおとなしくしようとか、
生産性・効率を高めた人間が高得点をたたき出して受験で成功するゲームなどです。
そのような「社会性」は、誰にとって(つまり私たちや社会活動にとって)どれだけ有用で
そもそも誰によってつくられ、誰が得するようにできているのでしょうか?
社会的な過程② —卒後も続く「所与のシステム」の圧力
そして、そのような教育を受けた人が社会に溢れかえります。
すると学校教育を卒業したあとも、私たちは「所与のシステム」への参画圧力を受けます。
これだけ徹底的な「受容」の強要を受けたあとであれば、
たしかにそのシステム上でうまく立ち回ること考えるほうが、
所与のシステムという前提を疑い自分の頭で考えるより楽だし慣れやすいです。
私たちはそのようにして、いつしか理不尽、不条理を受け入れることに慣れていきます。
まるで社会での生存手段を学ぶのと引換えに、自分の頭で考えないことを学ぶかのようです。
もし私たちが「所与のシステム」(ここでは社会的生産活動、伝統的な「社会性」を言っています)
を無批判に受け入れると、画一的なフレームワークだけで判断されることを、
自らの手で他者に許容することになります。
その結果、私たち他者からの評価で一喜一憂し、また勝者と敗者が生まれることになります。
人と人との間でなされるもの —評価の押し付け合い
そして、人から受けていた評価フレームワークを、
いつしか今度は他者に対しても行使するようになります。
こうして私たちの「社会的価値観」は形成され、
そこに参画・適合するかどうかを評価しあう、
お互いに勝者と敗者の評価を押し付けあうゲームに身を投じることになります。
また自分の頭で考えないことを学んでしまった後の私たちは、
発想が乏しく現状突破力が奪われていますので、
その代替手段としての差別的・暴力的な手段 (心理的であれ物理的であれ)すら助長します。
このようにして生じるいさかいや争いは、歴史を振り返っても、
家族内、地域社会、国家間のスケールのいずれにおいて枚挙にいとまがありません。
重要な問い
ここで私たちは重要な問いに立ち返る必要があります:
- 「所与のシステム」に参画できないと、本当に歯車の品質基準を満たさない欠陥品なのでしょうか?
- 「社会性」のない人間は、本当に人々の間で生活を営む資格がないのでしょうか?
- 欠陥品とみなされたら、本当に首を垂れ社会の外で惨めな気持ちで死を待つしかないのでしょうか?
これを繰り返していくと、最も根源的な問いにたどり着きます:
人の評価を決定づける、
私たちが心から信じるに値する、唯一絶対的な評価基準(正解)
など、本当に存在しうるのでしょうか?
【構造】固定観念の構造 —原理的に存在しえないものを信じない
——私たちが心から信じるに値する、唯一絶対的な評価基準(正解)
これが「固定観念」が正当化されうると仮定したときの、唯一のよりどころです。
人が自らの考えを変えようとしないとき、それを信じるがゆえにそうするからです。
では、そのようなものが、本当に存在しうるのでしょうか?
結論から言います
——「原理的に」存在しえません
と。
(※この項は少し長いので、この結論に特に疑問がなければ、
次項に進まれても>> 話の進行上問題ありません)
しかも論理的かつ明確にそのことを証明可能ですので、
「固定観念」そのものや、それに縛られた考えはすべて、普遍的に誤りだと指摘できます。
その助けとして、上のような命題を、まさに考えてきた学問の力を借りることにします。
——それは、哲学です。
ここでは哲学の力を借りて、しかし哲学史や厳密な議論は避けて、
「唯一絶対的な、心から信じ続けるに値する、絶対的な評価基準」が存在するかの答えを、
やさしくかみ砕きながら紐解いていきましょう。
一つ目の話:意味をそぎ落としても唯一絶対の評価基準・正解にたどり着かない
これから二つのお話をさせていただきます。
一つ目は、とてもシンプルなお話です。
ここで「1個のホールケーキ」にご登場願いましょう。
いまホールケーキが、夫、妻、姉弟の合計4人家族の冷蔵庫に入っているとします。
このホールケーキが冷蔵庫に入っている「意味」を考えることにしましょう。
もしこの家族にとって、ケーキが「お父さんの誕生日パーティで食べるケーキ」だとすれば、
順当に考えてこのケーキは4等分されるはずです。
または、別の意味として「お父さんが出張中に母+姉弟3名でこっそり食べる」のだとすれば、
順当に考えてこのケーキは3等分されるはずです。
ここで、ケーキを「計算可能な対象」としてみなす限りにおいて、
ケーキ1/4個 x 4 = ケーキ1/3個 x 3
すなわち「いずれにせよ1個のケーキだよ」という意味の等式が成り立ちます。
ここで注意すべきなのは、
ケーキが数学的にイコールで結ばれるからという理由「だけで」、
「いずれにせよ1個のケーキだよ」という意味こそが唯一絶対的に正しく、
「誕生日ケーキ」や「お父さんに内緒で食べるケーキ」という意味は無意味である
という結論にはならないということです。
たとえば、もともと「誕生日ケーキ」として用意していたにもかかわらず、
お母さんがお父さんと喧嘩して、怒ったお母さんがお父さんの誕生日を開かないことにしたなら、
とたんに「誕生日ケーキ」は「内緒のケーキ」に変化します。
喧嘩の前後で、たしかにケーキの物質的構造が変化するわけでも、
さきほどの計算対象としての意味が変化するわけでもありませんが、
家族にとってのケーキの意味は180度変化したことになります。
この意味の変化は、果たして本当に無意味で、
あくまで物質的もしくは計数的なあり方こそが本当の意味なのでしょうか?
そんなはずはありません。
あくまで、「誕生日ケーキ」も「内緒のケーキ」も「1つのホールである」も
はたまた「スポンジにクリームを塗った塊」も「炭素と水素の塊」も「素粒子の塊」も、
一家の冷蔵庫に収まっているホールケーキの意味の表現として
いずれも無視できない程度に正しいはずです。
単に重要性が、その時の状況や興味によって変化するだけで、
意味が消え失せてしまうなどあり得ないことです。
このことを指摘したのは、ドイツの数学者ゴットロープ・フレーゲでした。
フレーゲは論理学者・数学者ですが、同時に哲学者でもありました。
彼は論理学を数学的な計算対象として扱う動きを活発化させた一方で、
哲学的には対象領域にはあらゆる意味が認め得ることもまた、示しています。
(※ 『フレーゲ哲学論文集』p.34)
恣意的な「意味のそぎ落とし」は誤りを生む
ここまではいいでしょう。
つまり、A = Bだからといって、その「=」こそが本質的な意味であり、
それ以外の意味(AやBそのものの意味)は捨ておいてよいのだとする考えは、
自然科学や数学の世界では有用だけれど、それ以外の文脈では誤りだということです。
たとえば、いまAさんが空き巣を働いてしまった人だとして、
もし彼が貧しい家の生まれで病弱の親兄弟を養うため、万策尽きて空き巣を働いてしまったのなら
A = 空き巣を働いた人 …(a)
という構図は確かに消えることのない事実ですが、それならば、
A = 家族思いで責任感と行動力のある人間 …(b)
という構図もまた同じくらい大事な着眼点と言うべきです。
(a)も(b)も両方を視野に入れてAさんという人をとらえるのが、本来自然な考え方のはずです。
現に司法の世界では、(a)だけを基準に画一的に判決を下すことはほとんどなく、
(b)が酌量され判決に影響することの方が普通ですし、
(b)のような人物をもっと社会的に保障すべきだ、という議論も起きてくることになります。
このように、
唯一絶対的な意味・解釈・コタエを恣意的に決めつける目的で、
他の意味を全て捨ててしまうのは誤りだと私たちは気づくことができます。
ここで、
「固定観念」を正当化する根拠となり得る「唯一絶対的なコタエ」が
誤りである1つ目の根拠
——唯一絶対的な正解を得るための他の意味を捨てるのは誤りである
が得られました。
二つ目の話:「全ての意味を包含する」意味は存在しない
しかし、これに対する反論もあるでしょう。
つまり、
唯一絶対的な解を得るために他の意味を捨てるのがダメなら
その逆に「すべての意味を含むような」意味なら存在するし、
唯一絶対的な評価基準・正解となる資格をもつのではないか?
という指摘です。
これについては、現代の哲学者マルクス・ガブリエルが
自身の著書『なぜ世界は存在しないか』(清水一浩翻訳、講談社選書メチエ)において
明確にNoという答えを出しています。
詳しい話は省略しますが、
彼は「存在する」ことの条件を次のように定義しました。
——意味の場に現象すること
さきほどの『ホールケーキ』の例であれば、
ケーキそのものが単独で存在することはできず、
常に『意味の場』(「誕生日ケーキ」や「内緒のケーキ」)という
ある種の意味や状況の中に、存在せざるを得ないということです。
逆に何の意味を持たないケーキを思い浮かべるのは不可能ということです。
たとえば、私たちがケーキをイメージするとき、
「皿の上に乗った」ケーキ、「イチゴ」ケーキ、「誕生日プレゼント」のケーキ、
「ハバネロのイタズラが施された」ケーキ、または「素粒子の集まりにすぎない」ケーキでさえ、
何らかの意味をまとったケーキとしてしか、思い起こさざるを得ないことがわかります。
そのような条件付けのもとで、
「すべての意味を含むような」ケーキが存在するかを考えてみましょう。
たとえば意味Aを「誕生日ケーキ」、意味Bを「内緒のケーキ」とします。
他にも意味C「素粒子の塊」、意味D「1個のケーキである」もあるとします。
これらをすべて含む意味Sがあるか?という問いです。
まずぱっと思い浮かぶ関係図は次のようなものです。
しかし、この図では不完全です。
なぜなら、意味Sが「存在する」には、何らかの意味の場を
(それが何であるかはともかく今はEとして)纏わなければならないからです。
つまり、次の図のようでなければなりません。
さて、これで完璧だという決着に持っていきたいのですが、まだそうはなりません。
なぜなら、意味Sの定義が「すべての意味を含むような」意味であるわけですから、
SはEを含まなければなりません。
つまり、
ここにきて、致命的な矛盾を2つも抱えていることに気づくことができます。
- この時点で意味Sが「唯一絶対的」ではなく、異なる階層で2つ生成してしまっていること
- このままイタチごっこが無限に広がっていくであろうこと(これを「無限背進」といいます)
これを「家族の冷蔵庫に眠っているホールケーキ」の例に戻って考えるなら、
このホールケーキの全てを包含する意味など、原理的に存在しえないということです。
「冷蔵庫に眠っているホールケーキ」には、
「誕生日ケーキ」「内緒のケーキ」「素粒子の集合体」「計数対象」
といった意味だけでなく、無数の意味が本来潜んでいます。
たとえばこの家族のお母さんが「素粒子の集合体」としての
意味を知らないか、または考慮せずに「ホールケーキ」と言ったとき、
その「ホールケーキ」という言葉や概念は、
もはや本来ホールケーキがもつ無限の意味を包含してはいません。
たとえお母さんがどれだけ博識でも、この状況から逃れることはできません。
ゆえに、この例えは私たち一般にあてはまります。
ここで、ドイツの哲学者ハイデガーが「世界像の時代」で指摘した言葉を引用しておきます。
それゆえ「世界像」を本質的に理解するならば、これが意味しているのは、
世界についての像ではなく、およそ像としてとらえられた世界のことである
つまり、
「固定観念」を正当化する根拠となり得る「唯一絶対的なコタエ」が
誤りである2つ目の根拠も得られました。
——「すべての意味を包含する」意味は存在しない
唯一絶対の評価基準・正解など「原理的に存在しない」
意味をそぎ落としても、または全ての意味を包含しようとしても、
結局唯一絶対的なコタエにたどり着けないのだとしたら、
意味や解釈や正解というものは、あくまで「誕生日ケーキ」「内緒のケーキ」のような
数多くある意味と同じレベルで、互いに共存・併存することでしか、
もはや存在できないと言うことになります。
これは、もし私たちの知性・知能・能力・意識等がどんなに高まりをみせても、
もしくはそのような天才や悟りを見たアバターが存在していたとしても、
彼らが唯一絶対的な評価基準・正解などたどり着くことは決してないことを意味します。
なぜなら、そのような基準・正解が原理的に存在しないからです。
原理的に存在しえないものを信じるというのは、
その人がどれだけの知性や能力、広い視野を持とうと、
筋の悪い方法だというほかありません。
【解決】固定観念を解きほぐす方法
——「唯一絶対的な評価基準(正解)」は原理的に存在しえない
そうであれば、あとは
人や事物がもつ本来の在り方をさぐるだけです。
実際は「唯一絶対」を逆説的に捉えるだけで、たってシンプルな答えにたどり着きます。
——そう、数多くある意味と同じレベルで、互いに共存・併存する
です。
これはつまり、物事や人には
無限の、尽きることのない意味が眠っていることを意味します。
絶対的な意味も、絶対的な無意味も、存在しない
ことを知るのです。
それこそ、私たちが「固定観念」を解きほぐすための本質的なヒントになります。
絶対的な意味は存在しない
何かの対象、
それが物であれ、イベントであれ、人であれ、
なにか絶対的な「意味」(多くは私の幸せの源であるという考え)
を投影しないことが固定観念を解きほぐす1つ目の鍵です。
たとえば、現在あなたにお付き合いしている恋人がいるとしましょう。
2年間付き合い、心の底から幸せで、良い思い出ばかりだったとします。
ここまではよいでしょう。
しかし、その幸せの源が、恋人にあると思った途端におかしなことになります。
あなたは「幸せ」を失いたくないと思っており、
その源が恋人にあるのだとすれば、恋人の態度に一喜一憂するようになります。
そうすると、両者の関係性が次第にほころんできます。
たとえば、恋人にいいように扱われたり、または面倒くさく思われたりです。
しかし、そのような扱いを受けてもあなたは「幸せ」を失いたくないですから、
引き続きその関係性に固執することになります。
とはいってもそのような関係に永続性があるとは思えませんので、
早晩別れを迎えることになります。
別れた後もあなたは恋人との別れから来る喪失感を引きずっており、
「一度信じたものから裏切られたような」気持ちがあなたを苦しめ、
もしかしたら10年以上尾を引くかもしれません。
しかし、その「裏切られた」という信念は、
本当にあなたが一生の貴重な時間を数年も(場合によっては一生)
かけて保持するだけの価値あるものなのでしょうか?
以上は一種の解きほぐされるべき「固定観念」と言えるでしょう。
おおもとをたどれば、その原因は、
私の幸せの源が~~にあると「絶対的に」意味付けするという行為です。
またはカルト宗教の教義や教祖に投影する
「救世主」的なイメージにも同じ傾向が見て取れます。
本質的に唯一絶対的な評価基準・正解などないのに、
それが「ある」と思い込んで、自らの魂の救済を他者にゆだねた瞬間に、
あらゆる「バランスを失った」感情、信念、思考に支配されることになります。
たとえば他人の迷惑などお構いなしに「普及」「布教」をとおして
「世のために貢献」する行為などです。
そしてそれが受け入れられないと「彼らは真理を理解しない愚か者」であるとレッテルを張り、
心の底では軽蔑的な眼差しを向けます。
自分で自分を信じられないからと言って、他者にその責任を押し付け、
期待通り扱ってもらえなかったら、とたんに牙をむくのです。
更に悪いことに、
そのような絶対的な意味の投影(「私の幸せ」は「あなたにあります」という視線)
を受ける側が、良心を欠いていたり、悪意がある場合、
あなたが投影した絶対的イメージを利用して「搾取の構造」をとるようになります。
カルト集団はまさにそのような構造を利用して、
組織のトップに立つものが下部の構成員から資産を回収せしめるものです。
場合によっては、社会的・組織的暴力の実行部隊として利用する集団すらあります。
いずれにせよ、「絶対的な意味」の投影は、
必然的に自分以外への執着を生み出します。
それを必死で守るため、私たちは「固執する」「防衛する」ことを選択し、
その手段として「固定観念を妄信する」という思考様式に、
——ほぼ無意識的に陥ることになります。
私たちが「固定観念」に陥るのは無意識的であるため、
それ自体を監視するのは本当に困難です。
そうであるなら、むしろ「固定観念」を形成するおおもとの心理状態に着目し、
他者に過度で絶対的なイメージを投影していないかどうかを
監視したほうが有意義になります。
そうでなければ、せっかくの恋愛も、
「恋心の発露」ではなく、単に他者の自由を奪う「暴力」になってしまいます。
絶対的な無意味は存在しない
一方で、正反対の考えである「この世も人も物も、絶対的に無意味である」という考えもまた、
バランスを欠いた「固定観念」を生み出します。
というのもこの世は「絶対的に無意味」という強烈な意味付けをしている点で、
「絶対的な意味」と本質的に変わらないからです。
数学者や科学者(とくに物理学者)はよくこの過ちを犯します。
いわゆる理系分野の人の視野を、画一的で狭いものと感じた経験があるのは、
おそらく1人や2人だけではないでしょう。
彼らは科学や数学モデルで説明される現象こそが唯一絶対的なコタエであり、
それ以外は暗黙の裡に「絶対的無意味」と無理やり設定してしまいがちです。
(自分たちの数学・科学の議論に邪魔だからという理由で)
そうなると科学という文脈以外では意味を持たない存在が、
(たとえばケーキへの意味付け:「誕生日ケーキ」「内緒のケーキ」など)
存在しないこととされてしまいます。
こういった思考法は、注意深く監視しなければヒトから人間らしさを簡単に奪いさります。
その行きつく先は、私たちの人生から生命の輝きを奪い、尊厳を忘れさせ、
究極的にはナチスの優生学的政策・隔離政策にも至りうることを、見落とすべきではありません。
しかし、もう少し謙虚に考えるなら、
数学者のように厳密に物事を考える人すらそのような過ちを犯すのであれば、
いわんや私たち普通の人は、なおのことこの過ちを犯しやすいともいえます。
現に私たちはテレビのニュースを見る際に、
先のAさんのような人を、(a)の「窃盗犯」というレッテルだけで評価し、
それこそが正当な評価だと勘違いし、式(b)を意図的に無視します。
しまいには「なんでそんなことするかなぁ」などと思い込む始末です。
これこそ固定観念が形成される過程そのものであり、また誤りであることは明らかです。
これからの私たち
——絶対的な意味も、絶対的な無意味も、存在しない
しかし、頭や理屈ではわかっていても、なかなか実行に移せないのが私たちです。
また繰り返し指摘してきたように、「固定観念」は本当に無意識に生じるので、
注意が必要です。
ですが、だからこそ「自分美学」は威力を持ちます。
なぜならアプローチが「自分」に向いているからです。
あくまで客観的に、主観を持った存在としての自分を見つめます。
そこに絶対的な意味も、絶対的な無意味もありません。
あるのは、
尽きることのない
人生の意味
だけであり、それをひたすら
磨き続ける
だけのことです。
その効果的な実行手段や実行例を、
今後『自分美学入門』『美学を磨く』『信頼理解実践』『女性性男性性』『昇華』
の各ページに継続して掲載していきます。
また、疑問に思った点や相談などあれば、
お気軽に ご連絡>> も頂戴できれば、歓迎させていただきます^^
『まとめ』にかえて —自己像・人生観を解きほぐす
ここまで述べた、固定観念についての要点は以下の通りです
- メリットもデメリットもあるが、トータルではデメリットが大きい
- 私たちが固定観念に縛られるのは、社会に適応しようとするあまり、「社会という名の絶対価値」に身も心もゆだねてしまうから
- 固定観念の裏に潜むのは「絶対的価値」という考え方。しかしこれが間違った考えであることは哲学と論理の言葉で証明可能
- だから逆説的に、物事の(そして人生の)意味は本来無尽蔵である。これに気づき味わう習慣がつけば、思考も行動も固定観念に縛られることがなくなる。逆もしかり
最後に、以上の話が、
自分美学にどう役立つかお話しします。
私たちの身の回りは物心つく頃から
「しなさい」「せねばならない」「あるべき」という価値観や
ひどい場合「恐怖とトラウマ」にすら囲まれます。
それに従ったり適応するうちに、本当にやるべきこと・やりたいことが
見えなくなっていきます。
それがいつの間にか自分の中でも当たり前となり、
そのまま人生観と自己像が凝り固まってしまうのです。
これが、私たちの生き方からどんどん自由が失われていく、
おおもとの原因です。
このような経験は、ほとんどの人が一度はするのですが、
果たして、そのような人生観・自己像って、
本当に正しいのでしょうか?
人生観・自己像がいったん固まってしてしまうと
物事を一つの見方でしか見られなくなります。
その結果、私たちは自分自身に対してすら、
——「歯車の出来損ない」「価値のない人間」
などと思うことすらあります。
しかし、これこそ本記事で述べてきた「打ち破るべき固定観念」です。
「固定観念」は、絶対的評価基準が存在する
という思い込みから成り立っています。
しかし、そのようなものは本来存在することができません。
この記事は、そのことを示したくて、書きました。
嘘とは、本来存在しないものを、
あたかも存在するかのように信じ、守ろうとすることです。
だから嘘はもろいのです。
だとすると、固定観念は、
所詮は打ち破られるべき もろい嘘ということになります。
ということは、いかなる一方的な評価やジャッジメントにも、
私たちはNo!と言ってよいのです。
それは、
自分で自分を卑下するような自己評価
も例外ではありません。
私たちが一生かけて囚われなければならない、
一方的な自己像など存在しません。
あるのは、ただ、
無尽蔵に湧き出し続ける、人生の意味だけです。
私たちが本来できるのは、それを1つ1つ見つけ出し、味わい続けるのみです。
もしあなたが、一方的な自己像に苦しむとき、
こう考えてみてください。
「あくまで今の私に出来るのは
尽きることのない
人生の意味
磨き続ける
ことだけ。
どう思おうと、どう思われようと、私はそのように生きるだけ」
これを実践しつづけるのが「自分美学」の真髄です。
そこで得られるのは、精神面、肉体面、活動面すべてに訪れる
自由とあなたらしさです。
人は、誰かを制御下・支配下に置きたいと思う生き物です。
しかし、あなたはそこに迎合してはいけません。
いまいちど「絶対的な意味も、絶対的な無意味もない」
で述べたこと立ち返ってみるべきです。
ゲーテのファウストのように、私たちの魂を悪魔に売り渡してはいけません。
今はできなくても、
または心の底からそうは思えなくても、
私たちは、人生の意味を磨き続けるかぎり、
私たちの人生に失敗はありえません。