こんにちは、
美穂です。
今日も一緒に
自分美学を磨く旅に出かけましょう^^
今回は、
自分らしく生きる鍵
—「自分らしい生き方」は、自分が「美しいと惹かれる」生き方。
についてお話しします。
前回の記事>> で、
——絶対的な意味も、絶対的な無意味も、存在しない
という言葉で、人生の意味を磨き続ける意味に触れました。
でも単純にそう言われても、
「それじゃあ、私らしい生き方って、何なの??」
という疑問が浮かびますよね。
この記事では、
「自分らしい生き方」とはいったい、どのようなものであるか
より具体的に考えていきたいと思います。
まず、人生とは何かを考えるうえで 役立つ視点(人生=精神の発達史)を提示します。
次に、「自分らしい生き方」がどのようなものでないかを考えます。
そのうえで、じゃあどのようなものなのか、という問いを一緒に考えていきます。
[toc heading_levels=”2,3″]
人生とは精神の発達史である
私たちの人生は「精神の発達史」
自分らしい人生とは何か?
このことを考えるために、
「私たちの人生とはそもそも何なのか」
について考えてみましょう。
これに対する私なりの答えは
——精神の発達史です。
私たちが生まれてから死ぬまで
さまざまな出来事、生き方、成長を経験します。
もちろん時代、地域、状況にもよりますが、
基本的に私たち人間は、自らの生活にもとづいて
精神を発達させながら、それぞれの人生を経験します。
私たちはただ生存しているのではなく、生活している
人間と他の生物を分かつもの
——それは精神です。
精神が何なのか、いろいろな考え方がありますが、
自分美学研究科では「意味を見出し、考え、理解する能力」
と考えます。
人間は精神を持っているからこそ、
他の動物とは違って、
物事にも、他者にも、そして何より自分自身にも
意味を見出すことができます。
私たちは精神をもつことによって、
「生きる」ことに2つの側面を持つに至りました。
——生存(Survive)と生活(Life)です。
人間以外の動物はすべて、「生きる」=「生存する」です。
クジラ、イヌ、ウマ、カラスのように
極めて高い知能をもつ生き物もいますが、
彼らは「生存」の安全や快適さ(餌の縄張り、住処、群れ)を求めることはあっても
自らの「生活」について、思い悩んだり、未来を気に悩むことはありません。
その場その場で、ひたすら懸命に生存のための行動をとるだけです。
しかし人間だけは人生に「生活」を見出します。
絵画に美しさを見出して感動したり、
小説の修辞や表現に心を奪われたり、
テレビドラマの登場人物に共感したり、
友人とおしゃべりを楽しんだり、
健康を求めて食生活を工夫したり‥
これらはすべて、「生活」です。
もちろん生存するために勤労もしますが、
実際のところ勤労すら「生活」の一部であって、
(仕事には人間関係があり、ドラマがあり、感動があり、また様々な感情が行き交う場でもあるからです)
単に生存=お金を稼ぐために働いているわけではありません。
私たちの人生にとって、
生存は最低限満たすべき必要条件ではありますが、
本質は生活です。
なぜなら、生存だけで構成された人生はあり得ないからです。
人生から生活という側面を切り離すことなど不可能です。
英語で人生(Life)も生活(Life)も
同じ言葉で表現されるのは偶然ではありません。
人生の本質が「生活」にあると気づいた時から、
私たちは自らの生活にもとづいて
物事の意味の豊かさに気づきながら精神を発達させることができます。
これを私たちは経験と呼びます。
精神の発達、
つまり見出せる意味が広がりを持つと、
生活や、そこから得られる経験はより豊かになります。
この好循環こそが、人生のだいご味であり、本質といえます。
(記事「自分美学とは」より引用。「精神」が信頼・理解、「生活」が実践・具現化にあてはまります)
自分らしい人生のヒントは、人類の歴史に隠されている
——私たちの人生は精神の発達史である
これが成り立つとすれば、
人類の歴史もまた、まさに精神の発達史であるといえます。
言うまでもなく、人類の歴史はまさにそのような私たちによって、
育まれたものだからです。
じっさい、
「精神の発達史」という視点に立って歴史を紐解いてみると、
私たち個人の生き方と、驚くほど相違点がありません。
たとえば、
「人類の歴史は戦いの歴史である」というフレーズはよく耳にしますが、
これは、
- 本来別物のはずの「生存」と「生活」を混同してしまった(過ち)
- だから動物界の生存競争の原理を生活向上の手段と勘違いし、多くの悲劇を生んだ(結果)
と説明できます。
これを、「人類の精神」が発達途上でたどった一つの通過点と考えれば、
『過ち』と『結果』を結びつける洞察はそのまま
(つまり同じ轍を踏まないための教訓として)、
私たちがより良い生を営むうえでのヒントとなるでしょう。
もし私たち個人が歩む精神の発達史を、
人類が歩んでいた歴史から学び取ることができるなら、
「自分らしい生き方」とはいったいどのようなものであるか、
または逆に、どのようなものでないか、
正しく知ることができるはずです。
「自分らしい生き方」は何でないか —歴史に学ぶ
この記事ではここから先、
人類が歩んできた歴史を紐解くことで、
私たちの「生き方」につながるヒントを学んでいきます。
まず、私たち人類が過去に行った
——そして現代まで脈々と続く過ちを4つ挙げます。
これによって「自分らしい人生」はどんなものでないかを明らかにします。
そのうえで、「じゃあどんなものなのか?」という問いに対する答えを、
一緒に考えていきます。
エラー0 「生きる」ことは生存競争に勝つことではない
先ほども言ったように、
私たちの「生きる」には2つの側面があります。
——生存(Survive)と生活(Life)です。
これはヒトが精神を発達させるにつれて
「生きる」ということに生活的な側面が生じてきたからでした。
しかし、現代に至っても、
私たちはしばしば生存と生活を混同します。
このような混同によって引き起こされる一番の弊害は、
生存競争・生存戦略の原理を、そのまま生活向上の手段に適用できると
短絡的に考えてしまうことです。
たとえば、私たちの身の回りでも
- お金のために働いている、仕事とプライベートは別(本来勤労も生活なのに、それを生存とみなす誤り)
- 生活の向上のために、出世したい(優秀さで他人に勝とうと競争する)
- 自分が優れていたり、正しいことを示そうとする(マウントをとる・トラブルをおこす)
などという考えは日常的にみることができます。
これらの考え方の核は、
「奪い取る」「優秀さを示す」「出し抜く」「自分さえ」です。
このような考えの一番の弊害は、
自分の生活を向上させることと引き換えに、
他者の生活の自由を奪い去ることです。
私たちが集団としてこのような思考状態をもつとき、
常にお互いの言動や視線におびえ続け、防御しなければなりません。
そうなると、「生活様式」を向上させる余裕
(=自らの内面を見つめ美学を磨く余裕)がなくなり、
ひたすら生存戦略をたて、生存競争に勝つにはどうすればよいかを考えるようになります。
かつてバブル期の日本人に使われた
「エコノミックアニマル」なる蔑称は
このような生き方を揶揄した言葉にほかなりません。
生存競争の連鎖が続くことで、必然的に勝者と敗者が生まれます。
これはいいかえると、
人間どうしが共存できない社会が出来上がってしまうということです。
人と人とが共存・両立できない社会が形成する時点で、
生存と生活の混同が、過ちであることは明らかです。
本来、人間が共存してこそ社会なのに、
共存できない活動で社会を成り立たせようと考えるのは
矛盾といわずして何なのでしょうか。
そのような視点に立つと、
私たち人類が歩んできた歴史も全く同じことが起こっているといえます。
- 人類がたどってきた、数多の戦いの歴史
- WW2の総力戦が終結後に続いた、科学技術競争・核武装競争・代理戦争
- 冷戦構造の終結後、適者生存・優勝劣敗という考え方(社会進化論)のもと、ビジネスモデルと広告戦略で「進化」したものが勝ち残っていく時代
私たちが精神の生き物であること、
そして生活の生き物であることを忘れた瞬間に
有史以前の、生存競争に明け暮れていた時代の性質が前面に現れます。
そのとき、私たちは単に
「奪い取る」「優秀さを示す」「出し抜く」「自分さえ」
という考えに取りつかれます。
もはや、せっかくの「高度な知能」をその道具に使うだけの動物に成り下がります。
最も生得的で単純ゆえに、誤りを犯す危険は常に付きまとう
人が自らの生活様式を向上させるには、
本来的にそれにふさわしい取り組み
——精神の発達に伴う生活の好循環を目指さなくてはなりません。
しかし、私たちに備わる二つの側面、
生存と生活に直面した時、
より生得的かつ本能的なのは前者であり
自動的に発動する(=楽である)という性質があります。
そのため、ついつい前者を選んでしまうのです。
「私たち」という視点で考えるよりも、
「私さえ」という視点で考えるほうが単純で簡単、
と言い換えることもできるでしょう。
単純で生得的だからこそ、
私たちが容易に起こしてしまう、「根源的な」「生得的な」過ち
と言えます。
本来複雑であるはずの私たち個人、組織、社会を、
単純化してとらえようとするとき、
そこに単純で生理的なプロセスとしての「生存」を無意識に援用していないか、
私たちは常に疑うべきです。
生存と生活の混同が、私たちの生活・社会を容易に脅かすからです。
地球上を見渡しても
私たちの精神の発達史のスタート地点は常にここであり、
また私たちが動物的生命であるかぎり、
最後まで付きまとう問題だと言えるでしょう。
エラー1 何かを絶対視すると、自分らしさが奪われ悲劇を生む
この過ちに気づいた人類の先達たちは、
この克服のために革新的な道具を編み出しました。
——宗教と道徳です。
本来的な意味での宗教は、
「奪い取る」「優秀さを示す」「出し抜く」「自分さえ」…
つまり自分勝手さからの脱却をひたすら説く
教育体系とコミュニティと言うことができます。
道徳は、その実行のための具体的な指針、ルール、社会通念といえるでしょう。
有史以来、時代や地域や成り立ちが違ったとしても、
精神的支柱としての宗教組織と行動的模範としての道徳規範は
ともに人々の信仰・行動基準として絶対的な地位を占めていきました。
しかし、
——絶対的な地位を占める
ここに大きな誤りが隠されていることに、
かつての人類は気づきませんでした。
一番大きな過ちは中世~近世(※)の西欧諸国でおこりました。
(※特に英国清教徒革命あたりの時期にピーク)
絶対的な権威をもった宗教組織である「教会」の影響は、
文化、生活様式、政治、人々の信念体系にまで影響を及ぼすようになりました。
宗教的リーダーはおのずと社会的な地位が向上し、
権力的中枢に近づき、いつしか身を置くことになりました。
ここで比較のために、私たちが住む現代日本を考えてみましょう。
現代日本は民主主義です。
民主主義とは、端的に言うと
権力の行使を正当化するものは「民意」と「選任」だけであるという考え方です。
民意と選任、両者を満足しない政策や法律は正当性を失います。
これが民主政体の抑止力です。
しかし絶対王政や封建制度においては、
権力の行使は王権神授説によって正当化されていました。
これは、国王の権力は神によって与えられたとする考えです。
そして、国王の権力が「神によって与えられた」と保証する組織が、
教会です(いまここで宗派は問うことはしません)。
つまり、国王にとって教会は権力を保証してくれるし、
教会にとって国家権力は近づくことによって実質的な権力を握れる存在ということで、
両者持ちつ持たれつの関係だったのです。
そして、権威が権力と結びついた結果、
国家権力の中枢が恣意的に(要は好き勝手に)
国内・国家間のあらゆることをコントロールする手段として、
やがて暴力が常態化しました。
——魔女狩り、異端審問、贖宥状(免罪符)
いずれも聞いたことのある言葉ばかりだと思います。
しかし、ここで注意しなければならないのは、
「魔女狩り」も「異端審問」も「贖宥状」も、
ヘビーユーザーは民衆だったということです。
たしかに、国王も教会も、これらを正当化し、奨励したり実行したりすることはありました。
しかし、実際にこれらの活動を熱狂的に求め、積極的に協力したのは
他でもない民衆だったのです。
実際、統治が比較的安定していた大所領では、
そこまで熱狂的な魔女狩りが行われたわけではありませんでした。
しかし、小領邦では支配者お民衆も社会不安に対する心理的耐性が弱く、
魔女狩りを求める声がより大きかったと考えられています。
つまるところ、
国王にせよ教会にせよ、
伝統的な宗教・道徳がもつ権威に対する「絶対的な信仰心(※)」と
(※民衆はそれしか知らないので、おのずと宗教と道徳の「熱狂的信者」となります)
社会不安から逃れるための「強い依存心」を巧みに利用して、
社会的ヒステリーを引き起こし、民衆を見せかけの満足の海に放り込み
権威をますます高めようとしていたのです。
状況の整理
ここで事態を整理してみましょう。
宗教とは本来、冒頭で述べた通り
「奪い取る」「優秀さを示す」「出し抜く」「自分さえ」…
などの自分勝手さからの脱却をひたすら説く
教育体系とコミュニティのはずでした。
いずれの宗教・宗派も「自分勝手さ」をかなり強い調子で戒めています。
これは何より「エラー0」で指摘したアナーキー的、世紀末的な過ちを避けるためですし、
なによりその過ちが社会に及ぼす自壊作用を、
まるで宗教の創始者が身に染みて実感しているからであるようにも見えるほどです。
しかし、「精神の発達史」たる人類の歴史において、
宗教の創始者(——アブラハム、モーセ、ブッダ、キリスト、ムハンマドなど)
の想いと行いが、常にその意思に沿って構成に引き継がれるわけではないことは明白です。
なぜなら、
「精神の発達途上」=「創始者ほどには精神が発達していない」
=「創始者の教えをそのままの形で受け取れない」
からです。
創始者の意思が受け継がれたのは、せいぜいその直弟子まででしょう。
その後もなんとか教えを体系化・安定化させるべく
教典や経典が編纂されたりもしますが、
「教えをいかにそのまま残すか」だけに焦点が当てられ、
そこに民主政体のような抑止力も自浄作用も働きませんでした。
信者に対しては、基本的に教えに盲信することが良しと教育されました。
自浄作用がない教育体系では、
いつしか教えが「絶対視」されるようになり、
人々の心の「よりどころ」となっていきました。
そのようななかでは、絶対的信仰心を利用する者が現れるのも
時間の問題でした。
何かを絶対視することで(=何らかの対象を特別視するという行為によって)、
宗教と道徳は、本来の意味を失ったのです。
「絶対視する」という行為自体に根本的に誤りがあるためです。
だいいち、「絶対的な価値基準」は、本来的存在できないものです。
これについては、前回の記事>> で詳しく述べているので、参照ください。
私たちの生活にも潜む「盲信」「絶対視」
誤りの危険性は私たちの日常に潜んでいます。
たとえば、現在あなたにお付き合いしている恋人がいるとしましょう。
2年間付き合い、心の底から幸せで、良い思い出ばかりだったとします。
ここまではよいでしょう。
しかし、その幸せの源が、恋人にあると思った途端におかしなことになります。
あなたは「幸せ」を失いたくないと思っており、
その源が恋人にあるのだとすれば、恋人の態度に一喜一憂するようになります。
そうすると、両者の関係性が次第にほころんできます。
たとえば、恋人にいいように扱われたり、または面倒くさく思われたりです。
しかし、そのような扱いを受けてもあなたは「幸せ」を失いたくないですから、
引き続きその関係性に固執することになります。
とはいってもそのような関係に永続性があるとは思えませんので、
早晩別れを迎えることになります。
別れた後もあなたは恋人との別れから来る喪失感を引きずっており、
「一度信じたものから裏切られたような」気持ちがあなたを苦しめ、
もしかしたら10年以上尾を引くかもしれません。
またはカルト宗教の教義や教祖に投影する
「救世主」的なイメージにも同じ傾向が見て取れます。
本質的に唯一絶対的な評価基準・正解などないのに、
それが「ある」と思い込んで、自らの魂の救済を他者にゆだねた瞬間に、
あらゆる「バランスを失った」感情、信念、思考に支配されることになります。
たとえば他人の迷惑などお構いなしに「普及」「布教」をとおして
「世のために貢献」する行為などです。
そしてそれが受け入れられないと「彼らは真理を理解しない愚か者」であるとレッテルを張り、
心の底では軽蔑的な眼差しを向けます。
自分で自分を信じられないからと言って、他者にその責任を押し付け、
期待通り扱ってもらえなかったら、とたんに牙をむくのです。
更に悪いことに、
そのような絶対的な意味の投影(「私の幸せ」は「あなたにあります」という視線)
を受ける側が、良心を欠いていたり、悪意がある場合、
あなたが投影した絶対的イメージを利用して「搾取の構造」をとるようになります。
カルト集団はまさにそのような構造を利用して、
組織のトップに立つものが下部の構成員から資産を回収せしめるものです。
場合によっては、社会的・組織的暴力の実行部隊として利用する集団すらあります。
これは、先ほどの「歴史」で述べた
「魔女狩り」「異端審問」「贖宥状(免罪符)」の構造そのものです。
いずれにせよ、「絶対的な意味」の投影は、
必然的に自分以外への執着を生み出します。
——絶対的な意味などない、何かを絶対視してはいけない
そう心に誓わない限り、せっかくの恋愛も、
「恋心の発露」ではなく、単に他者の自由を奪う「暴力」になってしまいます。
エラー2 なんでも「無意味なこと」と考えると、すべてが行き詰まる
「反抗」「科学」「経済発展」という三位一体の自由観
エラー1での問題点は
- 「何かに『絶対的な意味』を投影すること」によって、
- 「崇められた側の人間による権威と傲慢」が抑止不能となり、
- 「恣意的な言説や行動(つまり言いたい放題・やりたい放題)がまかり通ってしまった」
ことでした。
話を再び近世の西欧に移しましょう。
これに対する強力な対抗手段が生まれたのです。
——革命、科学そして経済発展です。
17世紀当時の英国内では先述の専制政治と教会の腐敗も相まって、
議会制政治を主張する動きが大きくなっていました。
ついには清教徒革命がおこり、専制政治はその歴史に区切りがつきました。
(その後一度王政復古がおこるものの、再び名誉革命がおこり、以後英国では議会制民主主義が定着します)
清教徒革命(プロテスタント=「反抗する人」 による革命)は、
「既存の権力と権威に対する強力な反抗」でした。
また時を同じくして「迷信を取り払う」という
時代の流れに沿って自然科学が勃興しました。
さらに、それによる産業革命による工業化がおこり、
高い生産性に裏付けされた自由な経済活動(資本主義)による社会発展を見ました。
清教徒革命から現代にいたるまで、
国際秩序と経済システムはアングロサクソン国家(英米)によって
形成されたといってよいでしょう。
このような成功体験にもとづいて、
英米両国にとって、
「反抗」「科学」「経済発展(資本主義)」は
切っても切り離せない三位一体のアイデンティティとなりました。
もっというと、この3つこそ、
現代におけるアングロサクソン国家の存在意義なのです。
彼らは自由主義の国家を標榜しますが、
彼らにとっての理想の自由主義は結局のところ
「反抗」「科学」「経済発展(資本主義)」に限定されたものです。
つまり、
- ありもしない迷信を捨てること。つまり「すべては無意味」からスタートし、
- 自然科学に代表される「目に見える」「検証可能なプロセス」のみが「信じるに値し」、
- その検証実験としてビジネスと経済発展があり、そこでの成功が「正しさ」を保証する
という三位一体のプロセスを踏むことで得られる自由を、
彼らはことさら「理想的な自由」として強調するということです。
状況の整理
このような「自由」のシステムと、宗教的システムの最大の違いは、
迷信と恣意(やりたい放題・好き勝手)を退けるシステムが稼働することです。
これによって、確かに見かけ上は
「エラー1:絶対視と迷信と横暴」が蔓延っていたときより
ずいぶんとマシな状況を作り出しうるように見えます。
しかし、プロセス1~3をつぶさに見えていくと、
そこにはやはり過ちが隠れていることに気づきます。
最も俯瞰的な視点で見ると、
独善的で覇権主義的な態度に走りがちということです。
たしかに彼らが目指すような自由は私たちを迷信・思い込みから解放し、
ある程度の発展への道筋が開かれる点でいくらかは役立ちます。
しかし、その自由こそが彼らの存在意義であるがゆえに、
彼らにとっての理想の自由「こそ」が絶対的な善であるという考えに陥りやすいのです。
さらに悪いことに、
彼らは、プロセス3.に示したような「経済発展」の成否が
正義を実証するものであるという考えを持っています。
これはありていに言うと「勝者が正義」という考えです。
その正当性は、
アダムスミスの「神の見えざる手」という考えにのっとっています。
神の見えざる手が支配する市場において、資本的勝者になれるということは、
そこに一定の正義があるに違いない、というわけです。
古くは大英帝国、現在は米国をみると、その価値観が
外交政策に如実に反映されていることがわかります。
しかし、結局このような態度は、
「エラー0:生存と生活の混同」へと陥りやすくしてしまいます。
なぜなら弱者・強者、敗者・勝者、という二項対立を生み出し、
人と人とで共存不能という雰囲気が蔓延する競争社会に至るからです。
共存不能の社会は、人どうしが分断され、ついには経済活動も成り立たなくなり、
本来彼らがよって立つはずであった経済発展すら行き詰まります。
本来、過当な生存競争を回避するために宗教が生まれ、
さらに宗教の暴走を止めるために革命・科学・資本主義が起こったはずです。
なのに、ふたたび過当な生存競争という
危険なフリダシへと戻ってしまった感があります。
結局、アングロサクソン的世界観における「自由主義」も
本来の道から外れしまったという意味で
宗教・道徳と同じく、構造的欠陥を有していると言わなければなりません。
原因は何か —「無意味」から出発すると行き詰まる
現代は
- ありもしない迷信を捨てること。つまり「すべては無意味」からスタートし、
- 自然科学に代表される「目に見える」「検証可能なプロセス」のみが「信じるに値し」、
- その検証実験としてビジネスと経済発展があり、そこでの成功が「正しさ」を保証する。
という3つの思考プロセスが極限を迎え、
(ある意味当然の)結果として、危険なフリダシへの回帰が起こっています。
では、どこに欠陥や誤りがあるというのでしょうか。
ここでは「1.および2.」と「3.」に分けて考えます。
まず1.および2.についてです。
上の三位一体のプロセスは不可分です。
とはつまり、
- 「なんでも『無意味』と考える」ことと、
- 「自然科学的に(特に物理学的に)存在が検証されれば『意味ある存在』であるとみなす」
ことは表裏一体と言うことです。
およそ存在と呼べるものは、すべて物理学での概念と言葉で説明できるはず
という主張だとも言えるでしょう。
このような考え方を自然科学至上主義といいます。
科学的唯物論とも自然主義とも言います。
しかし、これはよくよく考えるとおかしいとすぐに気づけます。
科学的唯物論や自然主義は、超自然的なものを極端に嫌います。
きっと神とかスピリットとかが過去犯した過ちに敏感になっているのでしょう。
これ自体は「迷信や恣意的なもの」に対して監視の目を働かせる上では非常に有用です。
しかし、そうであるにしても、
我々の生活にとって有意義な意味までも捨て去るのは
「極端でバランスを欠く」脆い考えと言わざるを得ません。
いくつかシンプルな質問を考えてみれば、この考えがいかに脆いものかわかるでしょう。
- 父とか母とかの関係性は物理的な言葉で説明できないから、すべて「無意味」なのか?
- 私たちが帰属意識をもち、国際スポーツ大会ではつい応援してしまう「国家」とは幻想なのか?
- リンゴの正体が「特定の集まり方をした物質の集まり」だと考えるのか?
- そうだとすると、ふじリンゴと紅玉リンゴに違いはないと考えるのか?
- それでも「違う」と認識する我々の考えは「幻想」だというのか?
- 昨日の朝食にパンを食べた私が、もし米飯を食べたとしたら、両者は別人だと言うのか?
- 物理学的実存が明らかでない精神を治そうとする精神医学は「幻想を扱う無意味な学問」なのか?
- 死んだ人間を弔うのは物質的=物理的に存在しないから「無意味」なのか?
- 日々の暮らしに思いをはせ、出来事に一喜一憂する私たちの感性・感覚・感情は「無意味」なのか?
- それが「無意味」だとしたら、素粒子ボソンとフェルミオンが違うとどうして確信できるのか?
科学的唯物論者や自然主義者の主張に従えば、
これらの質問(最後以外)全てYesです。
また2.にYesと答える流儀を「新自由主義」といいます。
サッチャー、レーガン、中曽根などの「小さな政府」が有名ですが、
やはり必然的に社会に歪をもたらしました。
もちろん、Yesと言い張り続けることは可能でしょう。
しかし、試しにYesと答え続けるとわかりますが、
それは随分と無理のある姿勢と言わなければなりません。
たしかにフジリンゴも紅玉リンゴも生物学的には「Malus domestica Borkh」でしょう。
しかし、両者は別の品種として、別の値段で、別の用途で使われ、別の味わいをもつのです。
彼らがかなり無理のある主張をしていることを端的に示す例として、
科学的唯物論者、自然主義者に対してこう言ってみるとよいでしょう:
「それではあなたの感情も感性も無意味なので、今から食事は生の玄米だけです。
栄養豊富ですよ。で、明後日には死んでもらいますからね」
彼らはかなりトンチンカンな主張をする人たちに映りますが、
本気で自分たちの考えが正しいと主張しています。
しかし、この声明を拒否ぜず受け入れる人がどれだけいるでしょうか。
上のような不自然さを纏うだけでなく、
科学的唯物論、自然主義は、
「エラー0:生存と生活の混同」を引き起こしやすくするという害もあります。
彼らは食餌(エサ)と食事の区別がつきません。
自然主義的観点に立った栄養学では、
よい食事とは、良い栄養バランスの取れた食餌のことを指しています。
彼らは、「存在」とは科学的、唯物的、自然的に立証されたものという観点ゆえに、
人間=生存競争を生きる動物 と同等とみなします。
一見、科学的唯物論や自然主義は、
きわめて合理的で、過ちを犯さないよう監視してくれているようでいて、
その実は「生存と生活の混同」を引き起こす世界観に私たちを引きずり下ろすのです。
もっと言うと、こういった思考法は、
注意深く監視しなければヒトから人間らしさを簡単に奪いさります。
その行きつく先は、私たちの人生から生命の輝きを奪い、尊厳を忘れさせ、
究極的にはナチスの優生学的政策・隔離政策にも至りうることを、見落とすべきではありません。
または上の例を持ち出さなくても、一番シンプルに、
「なんでも『無意味』と考える」ことの不自然さを指摘する方法があります。
それは「『無意味』という『意味付け』が絶対だと思い込んでいる」ということです。
これは、彼らが本来否定したいはずだった
「迷信=絶対的に正しいと思い込まれる恣意的な仮説」そのものです。
彼らは根本からして、自己矛盾しているのです。
このような調子ですから、私たちは、
彼らにこのように問いかけなければなりません:
超自然的なものを積極的に拒否していって、
その行き着く先は行き止まりではありませんか?
つづいて「3.」について考えましょう。
——ビジネス・経済成長・学術研究での成功が「正しさ」を保証する。
でした。
先に指摘したように、科学的唯物論や自然主義とあわせて、
「エラー0:生存と生活の混同」のような覇権主義的な世界観に
容易に陥ってしまうのが害です。
ではなぜ「勝つからには正当性があるはず」といった
誤った結論になったのでしょうか?
色々な理由が考えられますが、ここでは1点のみ、端的に指摘したいと思います。
それは
「いったん意味を全部捨てて、
『無意味』から意味を組み立てようとしても、
それは不自然で有害な意味である」
ということです。
これについて詳細な考察は のちほど 述べますので、
ここでは結論だけ述べておきます。
私たちの生活にも潜む過度の「無意味化」
ここに書いた過ちを一番起こしやすい人として、
数学者や科学者(とくに物理学者)があげられるでしょう。
いわゆる理系分野の人の視野を、画一的で狭いものと感じた経験があるのは、
おそらく1人や2人だけではないでしょう。
彼らは科学や数学モデルで説明される現象こそが唯一絶対的なコタエであり、
それ以外は暗黙の裡に「絶対的無意味」と無理やり設定してしまいがちです。
(自分たちの数学・科学の議論に邪魔だからという理由で)
しかし、もう少し謙虚に考えるなら、
数学者のように厳密に物事を考える人すらそのような過ちを犯すのであれば、
いわんや私たち普通の人は、なおのことこの過ちを犯しやすいともいえます。
現に私たちはテレビのニュースを見て、
たまたま「~~被告」とテロップ付けされた人を見た際に、
容易にその人を「犯罪者」とレッテルづけします。
そしてそれこそが正当な評価だと勘違いして、それ以外の意味を意図的に無視します。
しまいには「なんでそんなことするかなぁ」などと思い込む始末です。
このように、
人間から人間らしさを簡単に奪ってしまう「無意味化」が蔓延ると、
他者にも自分に対してもどんどん「無意味化」を施すようになります。
その先には、すでに上に述べたような「行き止まり」「害」しかありません、。
エラー3 「なんでもあり」の考えは、全てを無に帰す
ここまでのまとめ
エラー0は
- 生存と生活を混同することで、
- 生存競争の原理を、生活向上の手段として誤用してしまい
- 人と人の争い、疑い、恐怖が晴れず、互いに共存できなくなってしまうこと
でした。
エラー1では
- 「何かに『絶対的な意味』を投影すること」によって、
- 「崇められた側の人間による権威と傲慢」が抑止不能となり、
- 「恣意的な言説や行動(つまり言いたい放題・やりたい放題)がまかり通ってしまった」
ことが問題でした。
またエラー2では
- 「なんでも『無意味』と考える」ことによって、
- 「行き詰まりの結論」「危険な本能へのフリダシ」を招く
ことに誤りがあるのでした。
次なる「そうではないもの」
「自分らしい生き方」が上のようなものではないとすれば、
真っ先に思いつくのは次のような生き方です。
「絶対的な意味も無意味もないのなら、じゃあ何でもありだよね」
「ということは私が正しいと思っていることは、すべて私にとっての真実だ」
「なぜなら私がそう思うからそうなのだ」
これについては結論から先に言います
——「絶対的な意味も無意味もない」ことを、「なんでもあり」と捉えるのは誤りです。
「意味が存在するか」と、「正しい意味づけか」は別問題
前回の記事>> では、4人家族の冷蔵庫に入っているホールケーキには
無数の意味が存在することを述べました。
たしかに、これは正しいのです。
しかし注意すべきは、
いつでもどこでも、何とでも意味付けしても良いとは誰も言っていない
ということです。
ここで自分美学研究科の合言葉
尽きることのない
人生の意味を
磨き続ける
を思い出していただきましょう。
人生の意味は「尽きることない(無数に存在する)」にしても、
それを「なんでもあり」と捉えると、強烈な違和感におそわれるはずなのです。
「薄っぺらさ」「思慮の浅さ」「信用ならぬ感じ」などの印象を抱きすらします。
なぜそのような違和感や印象を抱くかというと、
「私がそう思うから、そうなのだ」という理由で「なんでもあり」を認めてしまうと、
自分の中にYes とNoが混在する自己矛盾に陥るからです。
たとえば、ある人が他人から尊敬されたいと思っているとします。
その人は、職場で同僚から批判的な意見を言われ、腹を立てています
——いわく、私の仕事をもっと正当に理解・評価しろ。お前の目が曇っているのだ、と。
しかし、別の場面で、当の本人は他人に忌憚なく意見を口にしまいます。
——いわく、私は仕事に誠実なだけだ。言うべき時に、言うべきことを言っているだけだ、と
自分は人から尊敬されたいから、他人から「批判されるのを嫌がる」。
なのに、他人に対しては言うべきことを言いたいから、「忌憚なく批判する」。
でも、これは明らかに矛盾しています。
「他者を批判する」という行動について当人の中でYes とNoが混在しているのですから。
他者からの批判も、その人自身が批判者である時と同様に
職務に忠実で、言うべき時に言うべきことを言っているに過ぎないかもしれないのに、です。
その矛盾を指摘されたとき、その人はおそらくこう言うのでしょう
——何が悪いんだ、私が正しいと思っているからそうしているんだ。私のことに口を出すな、と
当人に言わせれば、そのように生きることが「私らしい生き方」なのでしょう。
しかし、自己矛盾を抱えたまま、場合によって主張を変える
(今の場合、「批判すること」について自分がするのはいいが、自分がされるのはダメ)
というのは、ただの自分勝手です。
「自分勝手」と「自分らしい」は混同されるべきではありません。
そのような人は私たちの身の回りにたくさんいます。
しかし、他でもない私たち自身が、
知らぬ間にそのような考えに陥ってしまう
危険性も十分知っておかねばなりません。
さらに、ここにも「エラー0:生存と生活の混同」が付け入るスキが潜んでいます。
なんでもあり、というのは、
善悪も正しさも相対的なものにすぎず、その根拠はどこにもない、という考えです。
そこに「生存と生活の混同」という最も危うい罠に陥ると、
その終着点は、正義となるのはやはり勝者であり力を持つものだ
ということになってしまうのです。
「エラー2:無意味」ともこの点では共通しています。
もっと根源的なことを言うと、
「人生の意味付け」が本当に「なんでもあり」なら、
私たちは自分らしい生き方について悩むはずがありません。
私たちはそのような悩みを根本的にもつ生き物であるからこそ、
「なんでもあり」「私がそう思うから正しいのだ」という考えに
逃げるべきではありません。
このように、
意味付けをする段階で、
「なんでもあり」を採用してしまうと、
個人の生き方にせよ、社会の秩序にせよ、全てが無に帰してしまうのです。
これを相対主義と言います。
相対主義はあらゆる個々人やコミュニティの意思を
尊重しているように表面上は見えても、その先にあるのは「意思や秩序の破壊」です。
「なんでもあり」とは、自分自身の問題にせよ社会問題にせよ
問題解決の放棄にしかならないし、むしろ破壊的な結果を及ぼします。
これらの点に立ち返れば、
——「絶対的な意味も無意味もない」ことを、「なんでもあり」と捉えるのは誤り
ということは、即座に判断されるでしょう。
むしろ、意味が無数に存在する事を認めたうえで、
その中からどのように「適切に意味付けするか」「選んだ意味付けを一貫性持って守るか」
ということが大きな問題なのであって、
それこそが「自分らしい生き方とは何か」への答えにも繋がってくるはずなのです。
「適切な意味付け」は、「適切な問いかけ」に依存する
先のホールケーキの例を用いれば、
娘がお母さんに「この冷蔵庫のケーキなにー?」と聞いたとき、
お母さんは「素粒子の集合体」ではなく「お父さんの誕生日ケーキだよ」と答えるはずです。
しかし物理学者がホールケーキの形態をなす物体の
素粒子物理学的な挙動に興味を持っているとしたとき、
(そのようなものがあるかは別にしても)
お母さんがその検討サンプルの保存に従事しているとしたら、
サンプルの保管場所を訪ねてきた物理学者にお母さんは
「はい、こちらが素粒子サンプルです」と答えることでしょう。
さらにたとえを述べるなら、
「桃太郎は存在するか?」という問いに対してはYesです。
なぜなら意味は無数に存在するからです。
しかし、「物理学的実体としての桃太郎は存在するか?」という問いにはNoです。
一方で、「文学作品としての研究対象としての桃太郎は存在するか?」という問いにはYesです。
「私たちの心の中に桃太郎は存在するか?」という問いにも、おそらくYesでしょう。
ここで言いたいのは、
「無数に存在する意味」に対して、
「適切な意味付け」ができるかどうかは、
「適切な問いかけ」に依存するということです。
リンゴが木から落ちたとき、そばで読書していたニュートンは、
「リンゴが上から下に落ちるのはなぜか」と問いを立てました。
彼は落下という現象に、適切な意味付けしようとしたのです。
そこにこだわり、適切な問いかけを無数に幾度も重ねていったからこそ、
少なくとも物体の挙動をうまく表現したいというニーズに対して
「重力」という正しい意味付けをすることに成功しました。
私たちの人生も重力の研究と同様、
「適切な問いかけ」を幾度となく積み重ねることによって、
「適切に意味付け」されるべき研究対象のようなものでなければなりません。
「自分らしい生き方」とは何かを問う
いよいよ「自分らしい生き方」はなんであるか?
について考えていきます。
ここまで人類の歴史を紐解くことで、
「私らしい生き方」とは、少なくとも
エラー0~3のようなものではないことがわかりました。
- エラー0 生きること=「生存競争に勝つ」ことである
- エラー1 神、救世主、ヒーロー、恋人 他特別な存在に「絶対的な意味を投影」する
- エラー2 この世は全て「無意味なもの」と考える
- エラー3 絶対的な意味も無意味もないのなら、もはや「なんでもあり」である
私たちは、上のようなものではない
新しい「生き方」を創造していかなくてはなりません。
「問いかけ」の切り口は何か?
先ほど述べたように、
「自分らしい生き方」を名乗るのにふさわしいものは、
私たちが、私たち自身の手で研究を積み重ねて磨き上げるようなものです。
(サイト名が自分美学「研究科」なのはここからきています)
そのためには、私たち自身の人生を「適切に意味付け」することが必要です。
そして、そのためには「適切な問いかけ」が必要でした。
先ほどの冷蔵庫の中のホールケーキや、重力の研究では、
「適切な問いかけ」をするのは比較的簡単でした。
というのも、自分の興味と知的好奇心に基づいて、知りたいことを
疑問形にすればよいだけだったからです。
(冷蔵庫のケーキは何のためものか、とか、重力を仮定したときに物体の移動を表現する数式は何か、など)
しかし、これが「自分らしい生き方」となるとどうすればよいのでしょうか?
自分に対して知的好奇心を満たすというのも、なんだか違和感を覚えますよね。
「自分らしい生き方」の柱は予め立てておくべき
ここで強調すべきなのは、
やみくもに人生の意味への問いかけを重ねても、
「自分らしい生き方」に到達することはあり得ない
ことです。
質の問題は、量で解決することができない、
ともいえるでしょう。
これは「エラー2」で述べたことと深くかかわっています
「いったん意味を全部捨てて、
『無意味』から意味を組み立てようとしても、
それは不自然かつ有害な意味である」
これは実例を挙げて説明するとわかりやすいでしょう。
いま私たちが、「自分らしい生き方」について知識も信念も空っぽの状態だとします。
その場合、「人生の意味」を手探りで見つけるほかありません。
つまり気になるものを、知り得る限り学ぶように構築するしか打つ手がない状況です。
このとき私たちは、
図書館で哲学書、歴史書、心理学書を読み漁って
「人生とは何か」の知識を得て、考えることができるでしょう。
または学校や職場でさまざまな人間関係を築き上げるすることも可能です。
もし私たちの知力が一定の水準より優れていれば、
各々に対して、何か興味や疑問を抱いたとき
「適切な問いかけ」をすることもできるはずです。
しかし、ここで大きな壁にぶつかります。
私たちが何かを学ぼうとする時、
それを「教えてくれる人・本・情報」というのは、
それぞれ言っていることが全く異なるのです。
私たちが本当に
「自分らしい生き方の手掛かりが何もなく、ゼロから手探りで学ぶ」しかない場合、
人生から途端に一貫性が消失します。
人に振り回される生き方、と言えるかもしれません。
何が正しくて、何が善悪なのか、まったく見当がつかず
その場限りの生き方や八方美人な生き方をするようにもなるかもしれません。
つまり
「全くの無知」からはじまって
(=いったん意味を捨ててから)「私らしい生き方」を周囲の状況だけから手探りで組み立てると
(=ゼロから意味を新しく組み立てようとしても)たとえ「適切な問いかけ」を多くこなしたところで
一貫性のない生き方にしかたどり着かない
(=不自然かつ有害な生き方)
のです。
この状況は、
私たちの心の内側にある「人生の意味」がまったく喪失している
ことから生じていることは明らかです。
これは単純なモデルケースでしたが、
実際のところ私たちのうち、
そのように生きてしまうときって結構あるように思います。
いわゆるスピリチュアルジプシー、セミナージプシー状態、
または自分探しに出てしまう時は、そのような時なのだと思います。
美学に問いかける
やみくもに人生の意味への問いかけを重ねても、
良い結果にはたどり着かない。
そうだとすれば、
自分らしい生き方の「柱」「コア」というべきものを
「自分らしい生き方」を磨き上げるに先立って予め立てておくべき、
ということになります。
しかし、「自分らしい生き方」を創造する前にもかかわらず、
それに先んじて「自分らしい生き方」のコア存在するなど、あり得るのでしょうか?
これは結論から先に言いましょう、
——答えはYesです。
自分の内側に秘める美学(美意識・美的感覚)に問いかけるのです。
より具体的に、順を追ってご説明します。
自分の内側に秘める美学(美意識・美的感覚)に問いかける
少し突飛かもしれませんが、
もし私たちの人生が「芸術作品のように創造」できるものだ、
と知ることができれば
私たちにできることは何でしょうか?
芸術家の視点に立って考えてみましょう。
彼らは、創作に先んじて頭や心の中にひそむ「美しいイメージ」があり、
それを「どのような手法を用いれば」美しく創作できるかを考え、
実際に「美しく描出したり表現する」はずです。
たとえばミケランジェロがダビデ像を創作した際、
彼の内面にはすでにダビデ像が美しくそびえたっていたはずなのです。
じっさいの私たちの人生は、
いかなる小説よりも、音楽よりも、絵画・彫刻よりも、
芸術作品たるにふさわしいと言わねばなりません。
なぜなら、これら創作物よりもはるかに「多様な意味」を内包しているからです。
ともかくとして、
人生を芸術作品のような創造物であるならば、
それに先立つ「美的イメージ」が必然的に存在する事になります。
つまり、これこそ「自分らしい生き方」のコアたる存在と言うことができます。
私たちは、自分の人生を芸術作品のような創造物とみなすかぎり、
自分たちの美意識に問いかけることが
「自分らしい生き方」を創造する何よりの拠り所となります。
ゆえに、
ここに「自分らしい生き方」を磨くための切り口を明示します:
——自分の内側に秘める美学(美意識・美的感覚)に問いかける
言い換えると、「私にとって美しいものは何か」と
常に自分に問い続けながら生きるともいえます。
「私にとって美しいもの」は、
「私らしい生き方」に先立って存在します。
これを自分美学のコアとよびましょう。
具体像
具体的にイメージしていただくために、
イラストを交えて考えてみましょう。
おさらいですが、自分美学とは
気づかぬまま眠っていた人生の意味に取り組み続けること。
あきらめずに ただそのように生き続けること。
磨き続けること。
このために「信頼・理解・実践・具現化のループを回し続けること」
でした。
(自分美学の概念図)
今回、そのよりどころとなる「私にとって美しいもの」が、
「私らしい生き方」に先立って存在する、という話でした。
これが自分美学のコアです。
(コアを含めた自分美学の概念図)
実際には、信頼・理解・実践・具現化いずれの段階においても、
「自分美学のコア」へは常に問いかけが起こっています。
(「自分らしい生き方」の実践の概念図。常にコアへのアクセス・問いかけがおこっている)
「私にとって美しいか?」という問いかけは、
「本当に私らしい生き方を現在選んでいるのか?」という問いかけに等しいです。
人生を芸術作品と捉える限り、この関係性は常に成り立ちます。
そして、芸術作品と捉える人生観こそ、
私たちが本来望んでいた人生観のはずです。
そうであるなら、
私たちは「自分美学のコア」に問いかける生き方をすることこそ
生き方の究極形であると確信をもって言うことができます。
疑問
しかし、ここまで来て疑問に思う方もいるでしょう。
主に2つ考えられます。
1つ目の疑問は
エラー3で指摘されていた
『私が正しいと思うから、正しいんだ!』
という勝手さとどう違うの?
というものです。これについては端的に三つの相違点を指摘したいと思います。
- 一つ目は、成熟の度合いです。
「エラー3」では、無知と経験のなさによる視野の狭さ、子供っぽさが顕著です。
「自分美学のコア」では、経験や体験とともにあらゆる美を取り込むにつれ、成熟します。 - 二つ目は秩序です。
「エラー3」では、なんでもありで無秩序です。
「自分美学のコア」では、無限の意味を認めながらも、一番のものを選びます。秩序があります。 - 三つ目は欲求と害益です。
「エラー3」では、自分間違っていると認めようとしない、
謙虚さにかけた子供じみた欲求です。わがままで害となるものです。
「自分美学のコア」では、「生活様式」の向上に寄与したいという高度な欲求です。
創造的で、時と場合を選べば益となるものです。
つまり、エラー3のような子供じみた態度は、停滞を生みだしますが、
自分美学のコアに問いかけるアプローチは発展に永続性があるのです。
2つ目の疑問は
「私にとって美しいと感じるもの」
を拠り所にするのは非常に恣意的で
不確かなのではないか?
というものです。
そして、この指摘は表面上おこる事を述べる限り正しいです。
しかし、
たとえ未熟なうちは(視野の狭さゆえに)恣意的だったり不正確だったりしても、
磨き続けるというプロセスによってこれらは回避されるようになります。
そもそも人間だれしも最初は精神的に未熟な状態から始まります。
そこに向き合い成熟に向かうことは、
進化の途上のプロセスとしてむしろ避けて通れません。
他方で、熟慮、体験、経験によって、
人生の「芸術作品」としての意味合いは、徐々に際立ってきます。
要するに、「自分美学のコア」に基づいた生き方は、
磨き続けるというプロセスが永続的に行われる限り、
常にポジティブな帰結に向けて作動します。
たとえ未熟なうちは(視野の狭さゆえに)恣意的だったり不正確だったりしても、
やがて「芸術作品」として成熟し、時と場合を選べば誰かの役に立ち、
自分自身の「生きている!」という実感も得られるわけです。
そこに何か問題があると私は思いません。
むしろ、
「失敗が怖い」「迷惑をかけてはいけない」「損失を与えてはいけない」
という大義名分のあまり、これらの恩恵を放棄することのほうが、
(個人的にも社会的にも) ずっと損失が大きいと私は思います。
さきのダビデ像にまつわる、とても良い逸話があります。
「あなたの才能の秘密を教えていただけないでしょうか?
あなたはどのようにしてダビデ像をつくり上げたのですか—この傑作中の傑作を?」
ミケランジェロはこう答えた。
「とても簡単です。ダビデではないものを、すべて排除したのです。」
——ローマ教皇とミケランジェロの対話 ロルフ・ドベリ「Think smart」
最初ミケランジェロが抱いたイメージには、
さまざまな「ダビデ像」がいたはずです。
その中からどんどん「ダビデではないもの」を排除し(イメージを磨く)
ついには究極の芸術性に至り、見るものの心を奪うほどの感動を与える
創作物を生み出しました。
これに対して
「(創作の当初は)恣意的で不確実なイメージばかりなんだから、
そんな美的イメージに基づくダビデ像の作成なんかやめてしまえ」
などとミケランジェロに言うのでしょうか?
結局人生とは、本来的に「芸術作品」であるわけですから、
創作の当初では、まだ未熟で恣意的で不確実なイメージしかないというのは、
初めから分かりきっている性質のはずです。
本来的にそうであるものを、責めたところで得られるものは何一つとしてありません。
であれば、
「芸術作品としての完成度」に期待して、
「自分美学のコア」=美意識を磨き続け、そこに問いかけることのほうが、
それを放棄した生き方よりも、よっぽどほんとうの道を歩んでいるように
私には思えます。
自分美学のコアを磨く3つのアプローチ
では実際に「自分美学のコアを磨く」にはどのようにすればよいのでしょうか?
日常生活のレベルで、3つのアプローチから磨くことができます。。
- 心の筒をきれいにする
- 美的感覚を磨く
- 自分に恥じない行動をとる
具体的な方法論やノウハウについては、
また別の機会(「自分美学入門」「美学を磨く」などの記事)で述べていこうと思いますので
ここでは各アプローチの概要を説明したいと思います。
1.心の筒をきれいにする
「自分美学のコア」は、「これは私にとって美しいと言えるか?」問いに対して
さまざまな形で答えてくれます。
なかには非言語的に答えが返ってくる場合があり、
このとき私たちは
「中身はよくわからないけど、なんとなく良さそう(ダメそう)」
「長らく解決しなかった問題の、解決の糸口が河原で散歩しているとき目に入った」
「風呂に入ってリラックスしているときに、思わず新しい事業のアイディアが思いついた」
という第六感的な判断、解決、想起などを経験します。
このとき「自分美学のコア」は「インスピレーション」(ひらめき)
という言葉とほぼ同義といえます。
このような働きは、しばしばゼロからイチを創造するときに役立ちます。
もし私たちが上のように
「インスピレーション」を上手に受け取るためには
心の状態をいつも清明に保つことがなにより必要です。
たとえば、心の状態に曇りが出ていると
(気持ちが晴れない、もう何年もモヤモヤした気持ちが続いているなど)
- インスピレーション
- 単なる思い付き
- 思い込み
を、区別できません。
このような状態では、
「自分美学のコア」に適切に問いかけることもできなければ、
「自分にとって美しいことかどうか?」を適切に受け取ることもできません。
アイディアと妄想がごちゃまぜになって頭に浮かんでくるので、
自分の直感を信じることができないのも特徴です。
ひどい場合、日常生活においても、
人からのアドバイス曲がった解釈で受け取ったり、
誉め言葉に対してすら「何か裏があるんじゃないか」と疑心暗鬼に陥ったりもします。
これに対する解決法は、
かつて多くの流派で、多く方法が試されてきました。
地球上でもっとも代表的なものは禅や瞑想でしょう。
心を常に清浄な状態にメンテナンスしておくのに(瞑想的静寂を保つ)、
禅や瞑想はかなりの効果をもたらしてくれます。
しかし、心の汚れが進行し、病的なレベルまで進行すると
自力で掃除することが難しくなってきます。
その際は、心理カウンセリングや、
さらに病的なものでは医師による向精神薬投与などが行われたりもします。
たとえ話ですが、
どの家も、どうしてもしつこい換気扇まわりの汚れなど、あると思います。
そのなかでも、本当に自分できれい出来ないものについては、
ダスキンなどの専門業者に頼んだりする場合もあります。
それと同じことです。
ちなみに私がファシリテーションしてきたLDMでも、
この「心の筒のおそうじ」を行うワークがたくさんあります。
(※治療行為ではありません)
これらのワークは特に訓練や修行がなくても、
ファシリテーターのサポートのもと、
一瞬で「心がお掃除された状態」に持っていける点が特徴的です。
2.美的感覚を磨く
「自分美学のコア」に「美しいか否か」を問いかけたとき、
Yes or Noの直接的なコタエを受け取ることができます。
- この絵は美しいと感じるか? Yes or No
- この音楽は、今作成している動画のBGMに使えそうか? Yes or No
- このプロジェクトの人員配置は適材適所か? Yes or No
- 今回のデートのレストラン、A店よりB店のほうがふさわしいか? Yes or No
- 今回の研究開発で、一部他の実験と矛盾するデータがあるが、無視して大丈夫か? Yes or No
このプロセスの直接的な担い手は、
私たちがもつ美的感覚です。
その精度と速度と適応範囲は、
日常からどれだけ美的感覚を磨いているかで
相当変わってきます。
直接的にYes or Noを問いかけていない場合でも、
目や耳に入ってくる情報が否応なく私たちの美的感覚を揺さぶる場合、
創造性のスイッチが自動的に「ON」になります。
そうなると先ほどの「インスピレーション」が発動することもしばしばあります。
またインスピレーションがもたらすビジョンの多彩さ、表現力、アイディアの質は
美的感覚の幅に大きく左右されます。
美的感覚は直接的に私たちにYes or Noの価値判断を
自動的かつ高速でもたらします。
そしてその価値判断は「インスピレーション」や
後述の「恥じない行動規範」にダイレクトに影響するため、
実質的に「自分美学のコア」の中心的存在です。
美的感覚を磨くには、
日ごろから多くの物事に、多くの光を照らすことを意識するとよいでしょう。
芸術に触れ、文学に浸り、感性を磨いて物事の見方をアップグレードする。
文章を書き、絵を描き、音楽を奏で、映像を作成し、
さまざまな表現力を常にみがいておく。
人間関係、仕事、学問での経験や体験から、
つぶさにその法則性を洞察するなどです。
3.自分に恥じない行動をとる
美的感覚が磨かれ、インスピレーションも大量に湧き出てくるにつれ、
多くの「こうありたい」「こうはありたくない」という自分像が
思い起こされます。
そのような「自分像」には素直に従い、
そのまま行動(表現)したほうが良いです。
それどころか、行動(表現)しないままだと、むしろ害すら及ぼします。
じっさいのところ、美的感覚もインスピレーションも
私たちが表現しない限りは、私以外に知られることはありません。
しかし、私たちの自信は、
行動したという実績と、それによる結果と、他者からの評価
によって強化されます。
行動(表現)しないまま眠ってしまった「自己像」は、結局虚構なので、
もし守り通そうとしても無理が生じてしまいます。
たとえば、
- どんなに腹が立っても相手を罵る言葉は使わない
- 困っている顔をした人を見かけたら、積極的に助けを申し出る
- 人が集まる場所では絶対に笑いをとると決める
という自己像が思い浮かんでも、それを実行できなければ、
周囲からは「そうではない人」という印象を抱かれます。
しかし、本人はというと、心の中ではそういった自己像が先行していますから、
他者からの「的を射ていない」評価を内心面白く思わないのです。
ここで、実行前の=空虚な自己像を守ろうと、プライドが発動します。
この防衛的感情は、他者への「気取った」「敵対的な」「上から目線の」態度にうったえる
大変有害な感情です。
ともかくも、行動(表現)しようがしまいが、その積み重ねが、
自己像をポジティブなものにもするし、ネガティブなものにもします。
なぜなら、本当の自分は、私たち自身が一番よくみているからです。
思い立ったものを実行できているかどうか、
その差分が小さいほどポジティブに生きることができているし、
逆に大きいほどネガティブな要素が増えてくる、と言ってもよいかもしれません。
プライドは「自分を守る」ことに目を奪われますから、
インスピレーションも美的感覚も一気に損なわれてしまいます。
これは私たちの人生にとって、明らかに大きな損失です。
自分に嘘をついたり、自分の美学に従って行動しなかったり、逆に背く行動をしたりするのは、
自分に対して精神的な借金をしていることと同義です。
このように、
「こうありたい」「こうはありたくない」という自分像を行動に移すことが、
プライドという落とし穴を避け、
直感に従う勇気を私たちにもたらすのです。
『まとめ』—自分らしく生きる鍵は、美意識に問いかける生き方
この記事では、
「自分らしい生き方」とはいったい、どのようなものであるか
具体的に考えました。
人生とは精神の発達史である
第1章で伝えたかったことは、
人生も、人類の歴史も、ともに「精神の発達史」であるという点です。
人間は肉体面では変化がなくても、
精神を発達・進化させることのできる生き物です。
人間のそのような側面が、私たちの人生に「生存」だけでなく
「生活」という側面をもたらしてくれるようになりました。
その過程を、人類の歴史から追体験することで、
私たちは「自分らしい生き方」とは何であるか、
より正しく知ることができるでしょう。
「自分らしい生き方」は何でないか
第2章では、人類の歴史を紐解くことで、
「私らしい生き方」とは、少なくともエラー0~3のようなものではないことをお話ししました。
- エラー0 生きること=「生存競争に勝つ」ことである
- エラー1 神、救世主、ヒーロー、恋人 他特別な存在に「絶対的な意味を投影」する
- エラー2 この世は全て「無意味なもの」と考える
- エラー3 絶対的な意味も無意味もないのなら、もはや「なんでもあり」である
私たちは、上のようなものではない
新しい「生き方」を、創造していかなくてはなりません。
「自分らしい生き方」とは何かを問う
第3章では、自分の内側に秘める美学や美意識に問いかけながら
人生を作り出していく生き方を提唱しました。
やみくもに人生の意味への問いかけを重ねても、
決して良い結果にはたどり着きません。
むしろ私たちは、
「自分らしい生き方」を磨き上げる前の段階から、
自分らしい生き方の「柱」「コア」というべきものを
予め打ち立てておかなくてはならない、といえます。
自分美学研究科では、
人生を「芸術作品」のように創造できると考えます。
なぜなら、このような考えで人生に向き合うと
(まるで芸術家が作品を創出するのと同じように)
自分の内側に秘める美学・美意識・美的感覚・に問いかけることが、
「自分らしい生き方」を創造する「コア」であることに気付けるからです。
少なくとも、私自身と私が関わってきた人を見るかぎり、
このやり方が圧倒的に良い結果を生み出しています。
(「自分らしい生き方」の実践の概念図。常にコアへのアクセス・問いかけがおこっている)
美意識に問いかける。そのために美学のコアを磨く。
さいごに、「自分らしい生き方」を創造する「コア」、
つまり自分美学のコアを磨くための取り組みを3つご紹介しました。
特別な取り組みは必要なく、日常生活で実践できるし、しかも一番効果の上がる方法です。
- 心の筒をきれいにする
- 美的感覚を磨く
- 自分に恥じない行動をとる
インスピレーションを受け取り、美的感覚に従って、そのとおり行動する。
これが「自分らしい人生」を生きる鍵です。
これまで「自分らしい人生」を実感できなかった人も、
この3つの着眼点から人生を見直していくことで、
徐徐に生き生きと生活することができるようになります。
もちろん、すぐにうまくいくようになる、とはなかなか行かないでしょう。
たとえば、これまで数十年と抱えてきた自己矛盾をいきなり克服するのは
かなりの苦労を伴うはずです。
でも、だからこそ磨き甲斐があるといえますし、
磨くほどに輝きが増すので、だんだんと「生きる」ことそのものが喜びになってきます。
最初は慣れず戸惑う事は多いけれど、
いちど自分美学のコアを見出し、それに基づいた人生の歯車が噛み合うと、
驚くほど人生がスムーズに回り始めます。
ぜひ、これからも、自分美学を磨く旅を楽しみましょうね^^